坂口昌弘『秀句を生むテーマ』(文學の森)、その「あとがき」に、
本書は月刊「俳句界」に五十一回連載した「秀句のテーマ」をまとめたものである。
人が生きる上で大切なテーマを取り上げた。(中略)
本書を書く発端は、今まで多くの俳人論、句集論を書いてきてテーマで俳句作品史を見直すことの必要性を痛感したからである。優れた俳人の優れた俳句作品が、一体何を主題に句を読んでいるのかという観点から十数年間評論を書いて来たので、作品のテーマ(モチーフ)といあった、秀句の秀句たるゆえんの根本は何かということに深い関心があった。(中略)
仏教・キリスト教は、自然の四季と「命」の関係を語らない。荘子は石や瓦礫にも「道」があり「命」があるとし、その影響を受けた中国仏教は草木国土悉皆成仏の思想を作り、大乗仏教の「仏」は神と魂の一種に変貌した。「命」は大切であり、危機の時人は、「命」の健康・延命を願い、「神」や「仏」に「祈り」を捧げる。祈りはその効果がないときでも、人は切に祈らざるを得ない。詩歌俳句は祈りとなる。(中略)
ものの存在を真剣に考える人は、命の根源を求めて「道」を求める。命の維持のため、宇宙の存在を理解するために人は「科学」の真理を求める。医学・薬学も科学の領域であり、病を無くし「死」を避け不老長寿のために存在する。科学を追究すると、この世の見えない「力」に気づく。宇宙空間の多くは「闇」であり、「光」が生まれた「闇」を意識する。この世の「命」は「光」のおかげで発生して目に見える存在となり、「色」がつく。
真面目なことばかりでは人生が面白くないから「笑」を求める。俳句・俳諧のルーツに諧謔・滑稽があり、「笑」が元気を与える。人は真理・真実だけでは生きられず、時には「雪女」「他界」を空想し、「夢」を見る。現実の私とは別に「夢」の中の蝶と化し「「俳句」文学が存在する。
とあった。ここでは、「火ー火は禱り」の項から少しだが、紹介しておこう。
いつせいに柱の燃ゆる都かな 敏雄
三橋敏雄論といえば多くは戦争句を論じる。「柱の燃ゆる」とは、「神をも戦死者をも含む御霊の幾柱かが一斉に燃え上がる景」であるという言葉は、敏雄を師とした池田澄子のユニークな解釈である。神を柱と呼ぶのは古代中国の道教にルーツがあるが、神や霊が燃えるというのは異色な想像である。
という。そう言えば、愚生は二十代の頃、「火は火のことをかの火祭の火のほこら」という句を作ったことがある。「渦」の二十代作家特集に、この句を含めて、赤尾兜子が取り上げ、たしか「いま、リフレインを研究している」と評されたことがあったことを思い出した。もう50年以上前のことだ。ともあれ、本書中より、アトランダムになるがいくつかの一題一句を挙げておこう。
なほしばしこの世をめぐる花行脚 黒田杏子
水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子
鳥の目に雪降るはひとつの奇跡 宇多喜代子
凍蝶の魂離さざるごとし 稲畑廣太郎
海流の濃きをしるべに鳥帰る 能村研三
狼を山の神とし滴れる 加古宗也
瀧壺に瀧活けてある眺めかな 中原道夫
美しき被曝もありや桃花水 渡辺誠一郎
詩神撒く枯れの光に立ち尽くす 仙田洋子
星涼しもの書くときも病むときも 大木あまり
法皇の好みし黄なり初蝶来 大石悦子
億年のどこか繋がるしじみ蝶 花谷 清
ひまわりの遠心力のなかに居り 奥坂まや
蛍火の明滅脈を診るごとく 細谷喨々
髪洗うたび流されていく純情 対馬康子
魂は色を持たざり紅椿 星野高士
はくれんの祈りの天にとどきけり 日下野由季
鉄線花我が転生に猫もよし 寺井谷子
雪女あかごを抱いてゐたさうな 姜 琪東
柱なき原子炉建国記念の日 恩田侑布子
第三次世界大戦前走りつづける蟻の群れ 大井恒行
人死ぬやこゑ萬緑に溺れつつ 高橋睦郎
撮影・中西ひろ美「数え美も柚子色めでる頃となり」↑
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