2020年12月4日金曜日

山口青邨「木の椅子に君金の沓爽かに」(増補新装版『木の椅子』より)・・・


  黒田杏子第一句集・増補新装版『木の椅子』(コールサック社)、ブログタイトルにした句、山口青邨「木の椅子に君金の沓爽かに」は『木の椅子』への序句。本集は、黒田杏子第一句集『木の椅子』(牧羊社・昭和56年刊)に加えて、当時の現代俳句女流賞・選評、合わせて、数々の黒田杏子論(古舘曹人・瀬戸内寂聴・永六輔・長谷川櫂・筑紫磐井)を再録掲載し、かつ、今回の初出稿は,齋藤愼爾「『能面のくだけて月の港かな』-黒田杏子第一句集『木の椅子』増補新装版に寄せて」、また、黒田杏子の第25回角川俳句賞(昭和54年)応募作50句「瑞鳥図」(予選通過作品。うち29句を『木の椅子』に収録)。さらに著者の「増補新装版へのあとがき」が収められている。

 それにしても、愚生は、今は無き勤務だった弘栄堂書店の店頭で処女句集シリーズの一冊『木の椅子』を手にしてから、約40年が経過しているのだ。そして。黒田杏子と初めて会ったのは、高柳重信七回忌で富士霊園に向かう貸し切りバス中であった。当時、存命だった攝津幸彦と愚生の隣りが仁平勝、、その前列あたりに黒田杏子、宗田安正がいた。この記憶については、愚生よりも黒田杏子の記憶力のほうがはるかによく記憶されている。まだ、高屋窓秋、三橋敏雄、寺田澄史、もちろん、中村苑子、松崎豊、高橋龍、大高弘達、大岡頌司、太田紫苑、松岡貞子、糸大八、吉村毬子なども健在だった。さながら黒田杏子自筆年譜のような 「増補新装版へのあとがき」の中には、


  一九六〇年四年生。六月十五日樺美智子さんが国会構内で命を落とされました。その日国会をとり巻くデモ隊の中に居りました私は衝撃を受けました。夏休みの八月、大学セツルメントのメンバー達と、九州の三井三池炭鉱第一組合の子供達支援のため、炭鉱住宅で一ヶ月暮らします。貴重な体験でした。(中略)

 そして、瀬戸内寂聴先生に「あなたの人生にとって悪くない旅」とお誘い頂き参加させて頂いたはじめての南印度行の日々。ここで私の自然観と人生観は根底から一新され、全く別人に生れ変ってしまったのでした。

 〈自分の生きたいように生きてよい〉〈忖度(そんたく)せず〉〈太陽を仰いで森羅万象と交信〉〈大地を踏みしめ、与えられた生命を完全燃焼〉などと表紙に書き付けた数冊の句帳にはおびただしい俳句が残りました。その中から自選した有季定型の50句をはじめて角川俳句賞に応募。「瑞鳥図」は第25回角川俳句賞の第一次予選通過。私はこの50句の内から29句を自選、『木の椅子』に収めることに決めました。


 とある。そして、齋藤愼爾は、


(前略)しかし、この一、二年両協会は有名無実の存在となったのではないか。いや二協会の境が消滅したのだ。かかるとき、第二十回現代俳句大賞に俳人協会所属の黒田杏子氏の受賞が伝えられた。これぞ象徴的というか、画期的事件といってもいい。(俳人協会は会員以外は不可だ)

 黒田氏は全選考委員の全員一致の推薦で決定したといわれる。この趨勢は時代の必然であり、もう誰も止めることは出来ない。新しい俳句史創成のため、私も微力を尽くしたい。


 と述べている。ともあれ、本集より、いくつかの句を以下に挙げておこう。


   十二支みな闇に逃げこむ走馬燈     杏子

   夕桜藍甕くらく藍激す

   丹頂が来る日輪の彼方より

   白葱のひかりの棒をいま刻む

     湖北渡岸寺へ

   野にひかるものみな墓群冬の虹

   暗室の男のために秋刀魚焼く

   肉炙るなどかなしけれ昼の虫

   きのふよりあしたが恋し青螢

   夾竹桃天へ咲き継ぐ爆心地

   母の幸何もて糧る藍ゆかた

   摩崖佛おほむらさきを放ちけり

   蟬しぐれ木椅子のどこか朽ちはじむ

   炎天や行者の杖は地をたたく

   夕焼けて牛車(ぎっしゃ)は天に浮くごとし


黒田杏子(くろだ・ももこ) 1938年、東京生まれ。

 


          芽夢野うのき「花枇杷の家に満月あがり込む」↑

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