谷佳紀遺句集『ひらひら』(東京四季出版)、序文は、盟友だった原満三寿「ダンス・ダンスー句集に寄せて)、愛情溢れる跋文は、芹沢愛子「純心ー谷佳紀句集『ひらひら』に寄せて」、「あとがき」は妻の谷あかね。パソコンに記録されていた約4000句のなから、遺句集に収めた句は447句。まず、序文の中から、
さて、谷さんの俳句ですが、表題に「ダンス・ダンス」と付けたように、肉感的な言語空間で満たされている、というのが私の愚見です。擬音語、畳語など動詞、副詞的擬態語が異常に頻出するのが際立った特徴です。
例えば「ふわふわ」「ふわり」「ふわっ」などは数十句にわたって表れます。これらは温かく柔らかい充足感のようなもの、また漂うわだかまりの空気感のようなものとして機能しています。言葉を意味的、論理的に表出するよりは、ダンスのように肉感的振り付け語をもって俳句を立ち上がらせ、踊らせようとしているかのようです。(中略)
私の特選五句をあげます。
ひまわりと俺たちなんだか美男子なり
片隅に馬いて静かな花火上がる
天高く蘖(ひこばえ)ている老人なり
晩秋の空たっぷりともらいましょう
たんぽぽの絮と一緒の空きっ腹
また、跋文には、
(前略)谷さんは二十四歳の時に「海程」の同人になりました。まだ大所帯ではなく「同人スケッチ」という欄では、金子兜太先生が一人ひとりの紹介文を書かれています。「谷佳紀 くらげのごとくハイエナの如し。純心。二〇代、小柄褐色」。その二年後の「ショート。小答」という自己紹介欄では、谷さんは「配偶者なし。悪口雑言大好き。身体と反対の大声。純心」と自身でも先生から贈られた「純心」という言葉を使っています。(中略)
谷さんの俳句は時々解らないと言われます。解説は不要、というようなたたずまいです。なので好きという基準で選びました。(中略)
谷さんとの初対面での印象は、くらげでも、ハイエナでもなく、「洗い晒しの木綿のような人」でした。そう言うと、みんな笑うのですが、「糊が取れて体に馴染んだ、清潔な木綿」と説明していました。その後も谷さんは、谷さんとして、気取らず、マメで、一途で、ストイックで、面倒見の良い、優しい、せっかちな人。「純心」という言葉の似合う人でした。
句集上梓について「出せるなら出したほうがいい。それは必ずその人の俳句のためになるから」と言っていた谷さんでしたが、きっとこの句集を読んで新たに刺激を受けたり、心が自由になる人もいるはずです。
そして、「あとがき」には、
夫は一九八三年に海程新社企画の『谷佳紀句集』を、一九九九年に第二句集『楽』を出しております。当句集はそれ以後の句で夫がパソコンに整理していた句から「海程」「海原」に発表した句を中心に皆さんに選句して頂いたものから成っています。
句集名は「ひらひら」といたしました。「人生はひらひら赤蜻蛉は軽い」の句から取ったものです。私は俳句はわかりませんが、この句は漂うように生きている人の生の容相を表していると思うのです。この句集で谷佳紀を偲んで頂けたら幸いです。
とある。愚生が谷佳紀に最初にお会いしたのは、多賀芳子宅での句会で、原満三寿と一緒である。兜太が主宰になることに反対した若手俳人だった彼らは「海程」を退会した。原満三寿と「ゴリラ」を発行していた頃だから、30年以上前のことだ。その後、兜太の晩年には「海程」に復帰している。愚生のあいまいな記憶ながら、谷佳紀夫妻の仲人は兜太夫妻。そして、長年にわたってウルトラマラソンをやっていた谷佳紀だから、その急逝には、誰もが信じられない気持ちだった。ともあれ、以下に本集より、いくつかの句を挙げておきたい。
多賀芳子さん一周忌
多賀さんごろにゃんの顔どんぐりの顔 佳紀
悼 島津亮さん
亮さんとゆらゆらあひるのおまじない
被爆忌や書かないよりは書こうと思う
義弟 真流茂樹死去
茂樹さん泡雪のあと雨の塊です
悼 阿部完市さん
桜咲く男に寿命きて一月(ひとつき)
あしび咲く永遠とはものすごく快晴
宮崎斗士・芹沢愛子両氏ご結婚
ご結婚や前方ヒマワリ咲きだした
土筆キラキラ眠りを残した日々がある
もう五年ですか小春のお墓皆子様
あなたと秋ととてもとてものバラ香る
猛暑だろうと孫の頬っぺの柔らかさ
俺は今日蛍になったオオカミは去った
枇杷の花孤独はいつも晴れている
二月二〇日金子先生が入院されている熊谷総合病院へ
先生昏睡春の空で冬の風
すぐ忘れ泰山木の花のダンスダンス
紫陽花やいつも一人でいつもいたずら
愛は消えてもそこはまぁ紅葉です
帆柱はいまも青空青鮫忌
谷佳紀(たに・よしのり) 1943年~2018年、新潟県生まれ。享年75.
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