2014年1月20日月曜日

小山貴子著『自由律俳句誌「層雲」百年に関する史的研究』・・・


新傾向俳句誌「層雲」は1911(明時44)年4月に荻原井泉水が尽力して創刊された。表紙絵は中村不折。
井泉水は創刊の前年、全国を行脚中の河j東碧梧桐を訪ねて新傾向俳誌としての創刊を相談した。その創刊号に記された意図を次のように語っている。本著からの孫引きだが以下に上げておこう。

   層雲は俳壇を文壇に紹介せんが為に出たるものに候
   俳壇の諸兄に対しては素より広く俳句研究の機関たるべく候へども主として新機運に向  って猛進する作家の道場たらんとを期し候 文壇の諸兄に対しては広き意味に於て我等      と同趣味なるものゝ会堂たるべきは勿論に候へども主として独逸文学を唱道する者の舞      台たらんことを期し候(「編輯室より)

本著(私家版)は「層雲」百年とあるように、もともとは「層雲」百年を記念しての「層雲」百年史を構想のはじめにしていたらしいが、最終的に個人出版として世に問うことになったようである。とはいえ、「層雲」の歴史は、自由律俳句の歴史には欠かせないもので資料的にも大きな足跡を残している。
「層雲」の歴史を通しての研究はまさに労作というに相応しい。口絵のカラー写真は50ページを超える。今ではなかなかお目にかかれないものが多い。
全体を第一期(明治44年4月~大正15年・昭和元年)、第二期(昭和2年~昭和19年)、第三期(昭和20年~昭和54年・平成元年)、第4期(平成2年~平成23年)と分けて論述されている。
第四期は、「層雲」にとっての危機であり、その内情を少しはうかがうことができる。外部から見る限りでは、「層雲」の終刊と分裂、そして、十数年を経ての「層雲」の復刊は、苦難の道とも言えるだろう。
愚生が同時代として、少しでも垣間みたものがあるとすれば、第三期最終あたりの放哉・山頭火ブームあたりから、第四期初期の「層雲」終刊にいたる、わずかのあいだ、近木圭之介・藤本一幸や住宅顕信、そして、「豈」同人の藤田踏青あたりの仕事、最近の和久田登生ということぐらいであろうか。そのわずかではあったが、野村朱鱗洞『禮讃』、『海藤抱壺句集』などの復刻は記憶に残っている。
他に、自由律俳句全体としての資料と言う意味では、『自由律俳句作品史』(永田書房、上田都史・永田龍太郎編)、『自由律俳句文学史』(上田都史)がその歴史を眺望するには欠かせないありがたい書であった。
ともあれ、最近では、「自由律句のひろば」などが形成されるようになったり、いわゆる俳壇からは、冷遇されてきた自由律俳句もその史的意義も含めて、今後の展望を拓く為には小山貴子の一書は貴重であるといえよう。
思えば、大正時代は世に喧伝されているようにホトトギスの黄金時代というわけではなかった。子規が月並俳句として葬った俳句史を再び顧みることなく、定着してしまった史観があるように、つぶさに見れば、ある意味で大正時代は大正デモクラシーが幻のように消えてしまったように、ホトトギスの時代ではなく、自由律俳句の黄金時代であったともいうことができるのである。
『自由律俳句文学史』(永田書房)に著者・上田都史は次のように結んでいる。

   俳句はさなざまな条件によって自由律になる。例えば、口語が俳句を自由律にすると も、心のリズムが自由律にするともいわれた。いずれも俳句を自由律にしただろう。しか し、文学への当為のみが俳句を自由律にする正統であり、また、それが自由律俳句のレ ーゾン・デトールである。
  そして、自由律俳句は、十二音から二十二音のブラキストン・ライン内音数で書かれることを厳しい原則とする。従来の自由律俳句は、五七五調十七音を定型とし自由律の故に仇視した。それは、まことに滑稽な論理である。俳句を真に自由律で書こうとするなら五   七五調十七音も、当然、自由律の故に選ばれた自由律の一形式でなければならない。
                     カリン↓

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