2014年1月26日日曜日

豈句会・・・


豈の句会は奇数月の最終土曜日が定例で、二ヶ月に一度開かれる。
豈には、もともと句会がなく、攝津幸彦生前は、奇数月最終日31日、午後6時頃、新橋・三井アーバンホテルのロビーで待ち合わせをして、歓談。それから、蕎麦屋、そして喫茶店でお開き、句会はやらず、四方山話で時間を過ごすというものだった。
案内のハガキには、攝津の独特な文字でただ一言「三井アーバン にて 待つ」と手書きされたものが舞い込むだけだった(返信は無用)。
さすがに、大晦日には、誰も来ず、集まったのは、愚生と仁平勝と攝津幸彦の三人だったことがある。家庭を返り見なかったのではなく、背中に家族からの罵声(?)を浴びて出席していたのだ。
いつのときにか、まだまだ若かった高山れおなが筑紫磐井に「僕は句会というものにでたことがありません。一回経験してみたいのですが・・」という相談をして、攝津幸彦に話を持ちかけて始まったのが豈の歌舞伎町句会(ルノアール談話室)だった。
言いだしっぺの高山れおなだが、当分の間は句会に来ていたが、そのうち、面白くなくなったらしく、いまでは11月の忘年句会のみには顔を出すといった有様である。
もともと、愚生も攝津も句会にはあまり重きをおいていなかったので(攝津最晩年は自分の句会として楽しみだったようであるが))、相変わらず愚生は出たり出なかったりをした。攝津が亡くなって、ピンチヒッターならぬリリーフをすることになって発行人を三年間、それを筑紫磐井に発行人をしていただきたいと頼み込んで、そのとき、句会は愚生が責任をもってやるという交換条件を持ち出されたのが運の尽きで、現在まで来ているのである。
昨日の句会はもともと余り参加者の多くない句会だが、事務局長の酒巻英一郎、いつも司会をやっていただいている鈴木純一や「蛮」の新年句会とかさなったりで少なく8名だった。
おかげで、無点の句まですべて、なぜ無点になるのかまで論議できたので、それはそれで有意義だった。
加えて、関西から転勤で横浜に居を構えた堺谷真人の参加を得たばかりか、川名つぎおが休憩後の後半の司会を堺谷に譲って、これがまた、なかなかの采配振りであった、という、思わぬ付録がついた次第。愚生は相変わらずの超低空飛行が続く(出句3句のうち二つしか開かず、しかも一点のみずつ)。

     煮凝やどいてくれとも言えぬまま      小湊こぎく
     骨の無き身を凛として飾海老        堺谷真人
     愛猫に背狎れの木あり春月夜       福田葉子
     腰高に卒寿となりし銀の帯          早瀬恵子
     寒晴や利き腕に金属疲労          川名つぎお
     しゃぼん玉規格外品が売りです      羽村美和子
     行きずりの人でしかなく斜め雪       岩波光大
     荒星の裏なお淋し銀の匙          大井恒行    
                       ウメ↓



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