2014年1月31日金曜日

私は織田信長である・・・


北野元生(きたの・もとお)は、「何を隠そう私は織田信長である」と自己紹介する。
もとよりそんなことはあろうはずもないのだが、「そうですか」と応えると、浦島太郎のように「竜宮では老化は存在せず、最新の技術革新によっては細胞や組織が若くなることができるのである。従って一度は信長となったの受精卵は亀と乙姫の手によって、若い夫婦のもとに供与されたのであると」のたまうである。こうして「昭和12年に北野の人間として今日に到り」、かつ、近々には「また竜宮に赴く可能性が高い」と。
北野元生は、仏教大学大学院で坪内稔典教授の教え(西東三鬼研究)を受けている最中に「豈」に入会したいと、筑紫磐井に(懇願したかどうかは不明?だが)直接アタックして、豈の会の秘かな申し合わせにしていた入会時、愚生より若いという年齢制限の枠をあっさり破壊してしまった。というわけで、現在、豈入会への障害はなにもなく、無差別の先着順のようなものになっている。もっとも発行人・筑紫磐井がノーといえば実現しないが・・・。そのあたりは、並の結社より限りなく主宰に近い権威を有している。かの山口誓子は神に近しと言われていたことに匹敵するやも知れない。
(もっとも、磐井は磐井で、怖いお姉さま方にお伺いをたてることは忘れなていないようであるが)。
現在、北野元生(「船団」では北野元玄と名乗っていた)は「船団」「豈」「LOTUS」に所属している。
このたび第一句集『赤道を止めてーバベルのライン』(文學の森)を上梓したので、愚生の仲間ということもあって、少し、褒めておきたいが、北野は褒められて喜ぶような御仁ではない(心の内は知らないが、すくなくとも表向きは)。
少し、否定的なことでも述べたた方がほんとは喜ぶマゾ的なひねくれ者とでも言ったほうが良いかもしれない。
北野元生は幼少期から、俳句になじんできたようだが、実際に句をつくりはじめたのは近年のことで、「船団」での発表を嚆矢とする。
貪欲な勉強家だから、あらゆる傾向の俳句を詠み、テーマでその実をせめているようである。
愚生は古い人間だから、奇矯な句よりも、時折り、彼がみせるオーソドクスの平凡と思われるような句に魅かれるのである。
鹿児島大学歯学部教授だったときもあるようなので、その地に因んだ句のなかから、最近の「豈」55号から句を上げておきたい。
題して「熊曾建」。
     
    子らは地に騾馬を描きし松が梢(うれ)      元生
    吾が落す泪とは知れ草の露    

そして、本句集において、愚生の力遠く及ばず、申し訳ない跋を記すことになってしまったが、あらためて、北野元生の今後については、「この一集を読まれる人々のそれぞれの判断にゆだねるべきことであろう」ことを繰り返しておくので、是非お読みになっていただきたい。
因みに、序文は内藤三郎、解説九堂夜想。

    生真面目に涅槃西風あり春画あり
    晴天の今日柿を吊る首を吊る
    ウロボロス劣等感を初期化する
    ピーターパン・シンドロームかも、虹は
    剥製の海市に右を差し入れる
    山火事を囃して父を焼き尽くす
    ドイツ語で話しかけたら愁思だった
    赤道を止めて追い越せ間に合わぬ




   

    

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