2014年1月27日月曜日
藤原龍一郎のカタルシス(解放)・・・
「東京俳壇」(東京新聞)小澤實選に、藤原龍一郎が投句をしている。
愚生が眼にした最初は、昨年12月1日、月間賞として、飾ケイに囲まれた次の句だった。
菊坂に終りの秋の日があたる 東京都江東区 藤原龍一郎
その後、数回入選を果たしている。今月の句は、
タクシーに銀座の坂のクリスマス
藤原龍一郎、かつて月彦という名で,愚生より四歳若い俳人であった。
龍一郎は本名であり、歌人として、すでに10冊以上の歌集を持ち一家をなしている。
数年前から俳誌「里」では眉庵という俳号で句を発表していた。
俳号の由来はヴォリス・ビアンの『日々の泡』からだと言っていたので、洒落た名で、これはこれで俳句に遊ぶつもりになったのかな、と思っていた。それはそれで、興味深い自在な境地も生まれてくるかも知れないと秘かに期待もした。
しかし、今回は、俳号でなく本名である。退路を絶った感じもあるのかな、と、少しは驚いた。
その昔といっても愚生が俳句を始めるもっと以前、清水径子と中尾寿美子が秋元不死男「氷海」を廃刊に際し、継がず、一投句者として永田耕衣「琴座」の投句欄から再出発したことは、俳壇の伝説として語られていた。
大げさに聞こえるかも知れないが、藤原龍一郎という名声を思えば、それぐらいに匹敵するのではないかとさえ思えた。
月彦ではなく、眉庵でもなく、龍一郎の俳句を目ざしているのかも知れない。
その月彦に初めて会ったのは、彼がまだ学生服を着ていた頃、確か東中野駅近くの喫茶店でのこと、いや、当時、攝津幸彦とともに「黄金海岸」を発行していた盟友の大本義幸がバーテンダーをやっていた「八甲田」であったかも知れない。何かの打ち合わせで上京してきた坪内稔典、そして、攝津幸彦、さらに石寒太(毎日新聞・石倉昌治の名刺をもらった記憶がある)などもいたように思う。
その折り、月彦の第一句集『王権神授説』(深夜叢書社)を手渡されたのだ。
弾痕疼く夜々抱きあう亡兄(あに)と亡兄 月彦
致死量の月光兄の蒼全裸(あおはだか)
憂国や未婚の亡兄(あに)の指を咬み
絶交の親友(とも)には視えぬ水甕座
抱きしめて春の帆となる裸身かな
思えば、月彦十代の句群かも知れない。
彼がデビューしたのは、21歳のとき、1973(昭和48)年「俳句研究」五十句競作第一回佳作第二席からである。のちに、愚生も投句していた赤尾兜子「渦」同人として迎えられた。
上掲の句のような幻想的な句を発表し続け、俳句の新しいシーンの一翼を担っていた。
秦夕美との二人誌「巫朱華(ぷしゅけ)」を出していたこともあるが、ある時から、歌人・藤原龍一郎の方に完全に軸足を移してしまった。以来、月彦は杳として姿を現していない。
お互の若き日、ある句会を退けたとき、歌人では福島泰樹が好きだといって、「涙なくして泰樹の短歌は読めないよね・・・」と言い合った記憶が、いま蘇る。
いつだったか、彼に「『渦』時代の大井さんのことはみんなとってあります」よ、と言われた。それも遠い昔で、どうやら、それら多くの雑誌類はほとんど処分してしまったらしい。
今は愚生が、藤原龍一郎のことはすべて見ていたいよ、と秘かに呟いているのである。
彼にはいささか迷惑かもしれないが・・・。
現在、短歌も俳句も龍一郎にとっては、自身からのカタルシス(解放)であるにちがいない。
ビワノハナ↓
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