2018年9月30日日曜日

妹尾健「コスモスのみだれのなかの昨日今日」(「コスモス通信」とりあえず6号より)・・



「コスモス通信」とりえあず6号(発行・妹尾健)、「大風とほうれん草」と題した文の中に妹尾健は、

  千葉皓史氏の句集『郊外』の一句「大風やはふれん草が落ちてゐる」について前稿で「それはそれでいいのだが・・・」と言葉を濁してしまったのだが、いい、という意味は肯定しているといっているのではない。ぼくはこの句によって表現されたものをぼくなりに解説してみせただけである。

 こう述べた後に、虚子の「川を見るバナナの皮は手より落ち」の句に言及しながら、

 この句に関していえばそこに否定すべき「無」はどこにもない。強いていえばバナナの皮が滑り落ちたというだけだ。ここに法則を見るか、あるいはなんらかの因果関係をみるか。(中略)
 その現実があるだけである。だからぼくらにその現実を開示して見せるのである。トリビアリズムというものはおそろしいものである。現実にそれが対象的な認知ではなくしてものとの一体感において表現しようとするものだからである。それはいいのだが、ぼくの内部の何かが叫ぶ。千葉氏の作品に感じたその内部の眼の不在である。その不在においてトリビアリズムは確固不動である。それは思想的には我が国の「近代」の尖端であると同時に「反近代」の尖端でもあるという絶好の位置をしめている。この「無」の核心性をつかもうとしたのが千葉氏の作品ではなかったかとぼくらは考えている。(中略)
 ここにはそもそも問われるべき内部の眼というものが全く欠落している。それは対象とする世界との同一化であって異和ではない。むしろ異和感を排除しているともいえる世界なのである。ここまでくれば世界との異和感のなかで嘔吐した人物の実存などという問題はどこかへいってしまうだろう。(中略)
 ぼくらはここまできてなお人間の内部にひそむ存在の根、いってみれば実存の眼というべきものに出会うのである。近代俳句から現代俳句の折り返し点はまさにここから発するのである。
 
 最後に高屋窓秋「頭の中で白い夏野となつてゐる」の句に、

 これは主体即客体の世界に対するイマジネーションの世界であり、「無」を無化する試みといえるのである。あるのは世界に対するイマジネーションの世界であり、それをどう対象化していくという言語化の世界だったのである。
(中略)
 「現代性」とはあらゆる素材をイマジネーションすることであり、その現実を、その成り立ちを見つめ切ろうとすることにほかならない。これがいかに危険なことであり、人々の持つ俳句の観念に対する挑戦であったかということはいうまでもない。

 愚生は、妹尾健の「ぼくら」という言い回しにいささか違和感(異和ではない)を覚えるゆえ、「ぼく」という一人称で、最後まで書き継いでもらいたいという希望がある。今後の論の展開を楽しみに待ちたい。
 ともあれ、同時掲載の句からいくつか挙げておこう。

   秋刀魚食う長き食卓夫と妻     健
   秋あつし目の前にある探し物
   野菊あるあたりに人を尋ね行く
   雨また霧今朝鎌倉に人を見ず
   マルクスを抱えて帰る秋の闇
   男山霧の晴れ行く音を聞く



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