2018年9月14日金曜日

久保純夫「水洟を舐めているなり国歌かな」(『HIDEAWAY』)・・



             表紙写真は、水茄子で久保彩作↑

 久保純夫第11句集『HIDEAWAY(ハイダウエイ)』(儒艮の会)、「ハイダ・ウエイ」とは隠れ場所のことらしい。「あとがき」には、「ある時期、条件が揃えば(・・・・・・)ホテルに籠って俳句を書いていた」とある。また、

 私のお気に入りはバリ。そのホテルの敷地は広く、椰子の林もあった。芝生が敷き詰められ、デッキチェアも適当な間隔で、そこかしこに置かれていた。転寝と句作を繰り返していたその椅子がハイダ・ウェイのひとつであったといえよう。またレストランやバーの片隅で眼前の光景に身を浸しながら、五官を自在にする方法もここで獲得した。もう少し言えば、その光景に直面している五感、手にしている歳時記のなかの言葉、これまで蓄積してきたものやことの記憶。それらが三位一体となる情況こそが、私の中のハイダ・ウェイであった。

 そういえば、亡くなった阿部鬼九男もバリが好きだった。何度もたずね、時には一ヶ月以上も滞在した。料理が好きだった彼は、現地の人と一緒に台所に立つと、誰でも気に入られ、仲良くなれる、とも言っていた。日本のカップ麺は特に人気だったとも言って、お土産にしていた。愚生の娘にと、ガムランに使う竹製の楽器をいただいたこともあった。もっとも、阿部鬼九男はバリの舞踊に、より魅せられていたフシがある。
 話を元に戻すと、本句集は、久保純夫の個人誌「儒艮」創刊号(2013年5月)から25号(2018年8月)までの掲載した作品からの精選とあり、この間の久保純夫の多作ぶりかして、数千句のなから、ほぼ400句ほどの厳選にもかかわらず、「儒艮」に掲載されていた句と変わる事のない句のレベルで、本句集がそれらからの、改めての精選といわれても、少し困る感じがした。
 ただ、ブログタイトルに挙げた「水洟を舐めているなり国歌かな」は、同じ国歌を詠んでも、高屋窓秋「花の悲歌つひに国歌を奏でをり」の句と比すと、国歌に対する久保純夫と高屋窓秋の違い、思考の距離の違いが浮かび上がって興味深く思った。かつて、久保純夫は「水際に兵器性器の夥し」「湯豆腐の真ん中にある国家かな」など、言葉の密度の濃い作品もあり、その思考と面影を残していたのが「水洟の」の句であった。その密度が薄くなっているのは、多作によるものか、年令による(円熟?)ものであるかは、いまのところ、愚生には不明である。あるいは、少し無残な美しい光景を「その五感それぞれ、美味しいと感じるものが存在すれば、それこそ至高の経験」(「あとがき」)と言ってみせているのかもしれない。本集の各章は、滞在したホテル名が20、句も各20ほどの収載で構成されている。
 ともあれ、久保純夫には、昔からこだわりの言葉がいくつかある。そうした片鱗をうかがわせる傾向の句を、集中より幾つか挙げておきたい。

  アイムゲイ鹿尾菜の好きな人といて     純夫 
  ちあきなおみから出てくる鹿尾菜
  鹿尾菜から紛れ込みたる縁起かな
  撫でてから乳首を抓む分葱かな
  落ちている乳首を拾い潮干狩
  不貞寝する乳首のいくつ油蟲

また、他の句を少し挙げておこう。

  葱坊主地上の鬱を占めており
  文身(いれずみ)の上で尺蠖遊びけり
  いつまでどこまでいつからどこから冬木
  尽くされし手足を厭う霜柱  

久保純夫(くぼ・すみお)1949年、大阪府生まれ。



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