「オルガン」26号(編集 宮本佳世乃・発行 鴇田智哉)、4名の座談会は「セルビィと究極」、この座談会のタイトルは、一見しただけでは、何?であるが、要は髙柳克弘著『究極の俳句』と木田智美句集『パーティは明日にして』の句「セルビィのいそうな百葉箱に秋」をめぐっての話である。読者諸兄姉にあっては、直接、本誌に当たって読まれることをお勧めするが、ここでは、以下の部分を引用しておこう。
田島 「究極の俳句」という言葉が「あまねく時代を超えた俳句」ということなのかどうか。同時代における「多様性」という広がりのなかで、俳句をどういう時空で語っているのか、ですね。(中略)
宮本 本質っていったい何なんだろう?
福田 髙柳さんは、俳句とは何かと問う。その答えになるのが、本質ということでしょう。だけど、ひとつのジャンルにあらかじめ何かしらの本質があって、それは変わらないはずなんだと言っちゃうと、俳句というものはひとつの定義があって、それは揺るがないという発想になる。そうするとジャンルというものは、その点では変わることができないんだということになる。だけどそれは本当なのか。ジャンルというのは、もとは生物の種ののことです。この用語が隠喩だということを思い起こしておく必要がある。世代の入れかわりとともに、たえず揺らいでいく。その揺らぎは、ある時点、ある場所でひとりの人がぼんやり思い描くよりも、おそらくずっと大きいはずです。
鴇田 髙柳さんは、「伝統」が「時代や環境にも左右されるし、そのときどきの俳人の考えによって、姿かたちを変えていくことを、積極的に評価したい」と言っているので、「本質」はその向こう側にあることだよね。「俳諧自由」の竜骨だけは、いつまでも変わることがない」と書いている。(中略)
福田 本質は「俳諧自由」だと言いたかったんだとすると、「究極」ということばがいよいよあやうくみえます。「究極」というのは、目的地、行きつく先、とどのつまり、ということだから。そこを目指すことが前提になってしまうと、もう「自由」とはいえない。
田島 本書は、俳句とは別の創作ジャンルをかなり意識して書かれていますね、いくつかの章は別ジャンルの話から入ってます。他の俳論と比べると、だいぶ意識的だなと。俳句の歴史とともに、ジャンルを横断して書こうとしているというのは分かりますね。
〇口語俳句のこと。
福田 ただ、ジャンル間で議論がなされて、ジャンルが揺れ動いていくような議論よりは、どちらかというと俳句の固有性みたいなものを押し出したいんだろうなと思うんですよ。けれど、それによって削がれてしまっているものがあるように思っていて、その点で一番気がかりなのは、第五章なんです。要するに、いわゆる「口語俳句」の話です。もともとは、髙柳さんが大学時代に友人を俳句に誘ったときに、その友人が、おそらく〈柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺〉の句を念頭に、「俳句って、コロ助みたうなしゃべりかたするよな」と言った。髙柳さんは、相当腹が立ったみたいで、その友人に対して、俳句が今でも文語を使う理由を伝えようと書いている。髙柳さんは、「去来のいう『風姿』、すなわち一句の格調の高さとはどこから生じるのか」と問うて、「それは時間だ」と答える。(以下略)
ともあれ、本誌より以下に一人一句を挙げておこう。
秋風の影の模様が木のやうに 鴇田智哉
耳鳴りを団扇に払いきれまいか 福田若之
嬉々と地が浮いてくわくらんだと覚ゆ 宮本佳世乃
鷺草やマスクのなかの口ふくざつ 田島健一
★閑話休題・・髙柳克弘「眠られぬこどもの数よ春の星」(「鷹」10月号より)・・・
「オルガン」26号の座談会つながりで「鷹」10月号(鷹俳句会)、特集の対談は、髙柳克弘『究極の俳句』をめぐって/「季語と自我 奥坂まや×髙柳克弘」である。こちらは、結社「鷹」の内輪の座談会であるが、他に、書評として、柏倉健介「俳句を疑う、俳句を信じる」が併載されている。その結びに、
俳句を考えるにあたって徹底的な懐疑からスタートした本書の著者は一方で、芸術を、文学を、その読み手を、全面的に手放しで信頼している。私にはそのことが怖い。現代は、「自らの俳句信条とともに距離と責任の所在を明確に判断する『私』」が「霧消してしまった」(青木亮人の俳句時評、「文藝年鑑2021」)時代なのだから。しかしそれは著者も充分わかっているのだろう。だからこその、俳人としての決意の一書とみた。
とあった。対談もごく一部分になるが、抄出しておこう。
髙柳 奥坂さんはかねてから自分の俳句は「季語への供物」だと言っていますね。『究極の俳句』では、季題中心主義からの脱出ということを言っているので、ここも大きく違うところかなと思います。
奥坂 供物として新しいものじゃなければ、季語に喜んでもらえないわけです。同じような句を詠んでも、「また同じ供物か」となって、季語が死んでしまう。アプローチする方法は違いますが、季語を常に新しくしていかないといけないというのは髙柳さんと同じだと思います。
髙柳 そうですね、私もこの本の中で、いかに芭蕉が季語の本意に対して挑戦的だったかを述べています。芭蕉は、自分の思想や人生観を通して、季語を塗り替えていったという見方です。
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