武馬久仁裕『俳句の深読みー言葉さばきの不思議』(黎明書房)、帯の惹句に、
俳句の不思議さ、面白さを深く楽しむ!
●坪内稔典の「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」は、なぜ俳句か?
● 後藤夜半の「滝の上に水現われて落ちにけり」は、縦書きだから名句!
●阿部完市の難句「桜鯛箱をならべて箱のこと」は、〈重ね言葉〉で読めばよく分かる。
●俳句の「二階」は、「異界」。
●芭蕉とAI一茶くんの俳句、どちらが優れている?
とある。書名に深読みというだけあって、俳句の全くの初心者向きというよりも、けっこう俳句を齧った方でなければ、いわばズブの素人では、理解が少しばかり難しいかも知れない。何しろ言葉さばき(レトリック)を解き明かすというのだから・・・。さすがに、小川双々子の弟子であった武馬久仁裕だけあって、圧巻は、巻末の「22 俳句と漢詩の言葉さばき(レトリック)ー小川双々子から李賀(りが)へ」である。その中に、
(前略)ある日、この李賀の傑作を読んでいましたら、この双々子の句に似た表現があったのです。次のようになります。
炭俵照らしてくらきところかな 双々子
鬼燈(きとう) 漆(うるし)の如(ごと)く 松花(しょうか)を照(て)らす
李賀
「漆の如く松花を照らす」という言葉に惹かれました。そのまま読めば、「漆のように真っ黒く松の花を照らす」ということになります。これはどういうことか確認したく思い、「南山の田中の行(うた)」のいくつかの注釈を読みました。双々子の先の句の読み方に関連づけることができないか考えたのです。が、ことは簡単ではありませんでした。納得できる読み方に出会えなかったのです。(中略)
とあり、その深読みの鑑賞は 約20ページに及んでいる。で、
ながながと書いてきましたが、まとめますと、
鬼燈如漆照松花 鬼燈 漆の如く 松花を照らす
は、「鬼火が漆黒の光で松を照らせば、そこには、松の花が照らし出される」と読めばよいのです。
たとえ解釈上は「如漆」が「漆燈のように」であろうとも、その「ゆったりとした橙色のあたたかみのある炎」(9)を上げ燃えているはずの漆燈の光は、この詩を読む者の脳裏には漆黒の光へと転ずるのです。(中略)
ですから、そこに日常の散文の論理(考え方)を持ってきて読もうとしても、到底できることではないのです。
読者もまた、散文の論理(考え方)ではなく、詩の言葉さばき(レトリック)を素直に受け止め、読む必要があるのではないかと思います。李賀の「南山の田中の行」は、そのようにして読むことを求めている詩です。
小川双々子の、
炭俵照らしてくらきところなる 双々子
も、照らすことによって「くらきところ」が現れるという、散文にはない言葉さばきが、はっきり現れています。読者は、そのような言葉さばきを素直に受け止め、読むことを、この句においても求められています。
このように、漢詩を読むことと俳句を読むことは、その姿勢において少しも変わるところはありません。(以下略)
ともあった。ともあれ、例句として引用された作者のなかに、仲間の「豈」同人がおり、句のみになるが、以下に挙げておこう(鑑賞、読みの部分については、直接、本書にあたられたい)。
友情の二階の壺は置かれけり 摂津幸彦(二階は異界)
鬼灯やまだ濡れている人の声 なつははづき(鬼灯)
髪として欲望の朝を洗いけり 高橋比呂子(倒置法)
武馬久仁裕(ぶま・くにひろ) 1948年、愛知県生まれ。
撮影・中西ひろ美「どんぐりが不作らしいの猫『知らん』」↑
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