2018年7月13日金曜日

東徳門百合子「父母に焚く紙銭の嵩や秋彼岸」(「澤」7月号より)・・



「澤」7月号の特集は「俳句とアニミズム」である。執筆陣は坂口昌弘「日本文学を貫通するものはアニミズムなり」、高橋和志「松本たかしと能」、上田信治「波多野爽波ー原始彫刻と怪人の笑い」、関悦史「死と変容の充足ー永田耕衣のアニミズム」、柳元佑太「田中裕明ー言葉に棲むアニマと遊ぶ」、田中亜美「少年・狼・東国抄ー金子兜太のアニミズムをめぐって」、望月とし江「アニミズムと擬人化」の錚錚たるメンバーの他に、「澤」同人の方々の「俳句と一句鑑賞」などが誌面を飾っているが、もっとも面白く読めたのは、対談という気楽さもあろうが、中沢新一VS小澤實「相即相入の世界ーアニミズム俳句を読む」であった。読みどころ満載なので、興味のある方は、本誌を手にとってもらうのが一番だとおもう。が、対談のなかでごく一部だが、以下に引用する。

 中沢 (前略)長々と話をしましたが、芭蕉の時代、元禄期のいろいろなものを見て行くときには、今の常識で見てはいけないということが非常に重要です。〈伊勢〉と言ったら、今は皇室の重要な場所で国家神道の中心だと思いますが、芭蕉はそうは思ってないですからね。第一、国家のことは考えていない。徳川さまの世という風には思っていたでしょうけれど。そういう時代に芭蕉の句を解釈するときにはタイムトリップするべきです。伊勢と聞いたら「ふふっ」と思わなくてはいけないし(笑)蓬来と聞いたら、「ああ、こういう形ね」(笑)って思わないといけないのではないでしょうか。それが、アニミズムというものだと思うのです。(中略)
小澤 正岡子規以降が本当の俳句で、それ以前のものは別世界のものだという考え方の人もいます。貧しいことだと思いますね。
中沢 それは明治以降の神道を見て、あれが本当の神道だと思っているようなものです。で、はだか祭りなどを見ると、こんなのは神道じゃないなどと言うのでしょう。ところが、どっこい、逆なんだよね。

 ところで、ブログタイトルにあげた東徳門百合子(ひがしとくじょう・ゆりこ)の「父母に焚く」の句は、東徳門百合子が「第5回澤叢林賞」を受賞しているうちの一句である。それにしても東徳門を「ひがしとくじょう」とは、まず沖縄の人以外には読めないと思うが、彼女は沖縄出身である。数年前に、ある処で、その昔、愚生が少しだけ関わっていた労働争議の当該者だったことを知ったのだった。まさか俳句などという夏炉冬扇の器をたしなんでいるとはつゆ思わなかった。お祝いの意味をこめて、受賞作のなかから、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   騎馬戦のわれは馬なり太り肉     百合子
   秩父祭男衆(おとこし)の化粧濃し
   総務部へ妊娠届出す小春
   死ぬ父に母が接吻夜の梅
   椅子の脚つかみ立つ嬰桃の花
   
 また、同号の「同人二〇一七年の一句」から、愚生のちょこっと知り合いのよしみの方の句を挙げさせていただく。

   硬貨入れ灼けし遊具に跨りぬ        相子智恵
   葉桜や鋲に閉ぢたる検死創         池田瑠那
   ネアンデルタール以来なる鬱冬籠      小澤 實
   まないたに豚カツ切るや花の昼       押野 裕
   奔馬性結核の友白きシャツ         梶等太郎
   別れるまへの変顔やめよ冬紅葉       榮 猿丸
   全焼す木造一部二階建           林 雅樹
   ジェットコースターに叫び流行風邪治す   東徳門百合子
   うち揚げられし魚(うお)へ夏蝶とめどなし 堀田季何
   心臓スカラベ付き胸飾(ベクトラム)青冷ゆる  望月とし江



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