文章をどんなに書いても、その時感じた「なにか」を摑まえることはできませんでした。でも俳句によって「指さす」ことは出来たのです。言葉によってあらわえせない、ものはどんなに言葉を尽くしても掴めない。掴まなくてもよかったのです。「指さす」ことができれば。
俳句はその短さによって「指さす」文学です。確かに、大きなものを内側に掴みこむことはできないかもしれない。また、読み手が指ばかりみていては意味がない。しかし、指さす方向にきちんと目を向ければ、そこには言葉を超えた「なにか」があるのです。
と、述べる。この言いようは、ロラン・バルトの『象徴の帝国』の「俳句は指示するだけだ」という言説に近いように思える。それでも本書には、2011年からの591句が収められているのだ、という。この句数が多いか、少ないか、本質的な問題ではなかろうが、最近の傾向として、句集の収録数は多いのが当たり前になっているらしい。愚生の若い時は、300句収録する句集も珍しかった。部数も少なかったようにおもう。それだけ、読者の数が増えたのかも知れない。あるいは、一句一句の勝負ではなく、句群の勝負にでているのかも知れない。その句集を読むか読まないかを、作者よりも、むしろ読者の側に、その選択をせまっているのかも知れない。とはいえ、帯の惹句には、
耽美 幻想
風雅 諧謔
批評性・・・・
俳句は〈鍵〉であり
〈針〉であり
また〈指〉である
一句の中に
また
句群として響き合う
〈なにか〉
とある。集名の『夜蟻』は「夜あり」だろうとも思う。赤野四羽は句中にも、いくつかの読みを隠しているかも知れない。
ところで、昨年刊行の「豈」60号特集「『21世紀俳句』とは何か」に彼に寄稿していただいた「『イデオロギー』の片隅に」の玉文の締めに、その思いを次のように記している。
今後期待するとすれば、個人の連携によって俳壇内外に新たな流れを生む、そういった活動の可能性なのではないか。
今生に桟敷は在らず真葛原 赤野四羽
ともあれ、集中よりの句を以下に挙げておこう。
ところで、昨年刊行の「豈」60号特集「『21世紀俳句』とは何か」に彼に寄稿していただいた「『イデオロギー』の片隅に」の玉文の締めに、その思いを次のように記している。
今後期待するとすれば、個人の連携によって俳壇内外に新たな流れを生む、そういった活動の可能性なのではないか。
今生に桟敷は在らず真葛原 赤野四羽
ともあれ、集中よりの句を以下に挙げておこう。
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