2018年7月6日金曜日
稲垣光夫「ひつかぶる夜寒(よさむ)の床の泪(なみだ)かな」(『毎日が辞世の句』より)・・
坂口昌弘『毎日が辞世の句』(東京四季出版)は、坂口昌弘にしては〇〇VS〇〇ものではない。批評の根底には、無為自然の老荘思想や神道思想などがある。それは、著者自身もたびたび触れていることであるが、詩歌を、とりわけ句歌を論じるときには、これまであまり触れられて来なかったテーマでもある。著者「あとがき」には、
表現の姿・形の違いがさまざまあるが、やはり、詩歌文学は、命の表現において共通している。命の最期において、言葉はもっとも命の本質に触れざるをえない。
命があっての死であり、詩(ポエジー)である。命は詩歌俳句として残る。
命・魂と体は別である。脳・体は滅ぶが、生命・魂は言葉として残る。
残った言葉が読者の詩魂に入ったとき、新しい精神的な生命を生む。
死後の魂のゆくえについては誰もわからないが、言葉は詩魂としてこの世に残る。
と記されている。ブログタイトルに挙げた句は、『きけ わだつみのこえ』からのものだ。
一九四九年に『きけ わだつみのこえ』という戦没学生の手記が発行されて、当時大きな感動をもたらした。二十代前半の若い学生が死ぬ前に書き残した手記は七十年経った今でも感動を呼ぶ。戦没者の手記だから遺言に近く、詠まれたのは辞世の句である。手記を書いた時点で死を覚悟し、結果的に辞世となっている。
110人の戦没者の手記のなかで、十七音の俳句は短歌の半分ほどだったという。それでも俳句を辞世の言葉として選んだ学生もいたのである。同書の短歌作品から一首を以下に、
かくてこそ人も果てなむ爆雷に打たれし魚数多(あまた)浮きをり 馬場充貴
ところで、本日は列島の風雨災害のニュースとともに、オウム真理教・麻原彰晃ら七名の死刑が執行されたと報じた。果たして彼らは、辞世の言葉や、辞世の歌、辞世の句を残したのだろうか。愚生の危惧は、この死刑執行は、理由がどうあれ、信者にとっては殉教・殉死=神格化が起きるのではないか、ということ。やはり、罪は生きて償うことにこそ意味があると思うのだ。話題を元にもどそう。
本書巻末には坂口昌弘「生と死についての随想」、また「最期の言葉」として、本文の辞世の言葉より別に、112名の言葉、句歌が行年順に掲載されている。これを読むだけでも面白い。本文の方は井原西鶴からはじまり河野裕子まで27名の評伝とともに辞世の言葉、句歌が収められている。興味深いものばかりなので、手に取られたい。
ともあれ、本書より以下に、句歌のみを、愚生好みに偏するがいくつか挙げておこう。
雪はげし書き残すこと何ぞ多き 橋本多佳子(64)
行く春を死でしめくくる人ひとり 能村登四郎(90)
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子(64)
散るといふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐 三島由紀夫(45)
おーいおーい命惜しめといふ山彦 高柳重信(60)
春を病み松のねつこも見飽きたり 西東三鬼(61)
死ぬことを幸ひ銀河ながれをり 岸田稚魚(70)
神を拝し愁眉(しゆうび)をひらく花明り 加藤郁乎(83)
音なく白く重く冷たく雪降る闇 中村苑子(87)
犬も猫も雪に沈めりわれらまた 金子兜太(98)
坂口昌弘(さかぐち・まさひろ)和歌山県生まれ。
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