2020年1月13日月曜日

大道寺将司「鷹(たか)たるを怙恃(こじ)せる一羽天にあり」(『残の月』)・・



 大道寺将司句集『残(のこん)の月』(太田出版)、著者「あとがき」の冒頭には、

  すべて獄舎で詠んだ句です。体調に波があるため、時系列に並べた句数にばらつきがあります。一日に十数句を詠むことがある一方で、一週間に一句も詠めないことがあるからです。
 また一般の独房も同じようなものですが、病舎は風景から隔絶され、天気の良し悪し程度しかわからないので、死刑囚である私が作句を喚起されるものと言えば、加害の記憶と悔悟であり、震災、原発、そして、きな臭い状況などについて、ということになるでしょうか。
 思惟的と称するには浅い句に終始してはいないか、との虞れがないではありませんが。
 
  とある。栞文の福島泰樹「俳士大道寺将司へー蟬のこゑ秋津の鬼になれと言ふ」には、

  本書『残の月』は『鴉の目』(海曜社/二〇〇七年)に次ぐ三冊目の単行句集である。第二句集が刊行された二〇〇七年以後二〇一二年までの作は、全句集『棺一基』に収録されているから、『棺一基』は、それまでの全句集であると同時に第三句集にもあたる。したがって二〇一二年春から、本年二〇一五年までの作五〇〇句余りを収めた『残の月』は大道寺将司第四句集に相当する。(中略)
 とまれ、『残の月』を書写しながら、一九八三年七月、G君に宛てた手紙の一節を思い起こしていた。「死は、その辛さをゼロにしてくれるように思えるのです。でも、そうであるが故に、死は、ぼくの責任からの逃亡に他なりません」(『明けの星を見上げて』)。そうであるからこそ、生きて闘ってゆくという責め苦を自ら負い、辛さからの解放を拒否する姿勢を果し続けてきたのである。  
 悔悟と、その代償としての死を願うなら、これらの句は生まれなかったであろう。死への韜晦、闇への溶解を拒否する姿勢が、死を詠んでなおこの格調を生むのである。(中略)
 脊椎カリエスの痛苦と戦う子規。それはまさに「五体すきなき」拷問であり、子規はわずか六尺の蒲団を這い出ることもできなかった。獄中癌(多発性骨髄腫)を病む受賞者(愚生注:『棺一基』で大道寺将司は第六回日本一行詩大賞を受賞している)の謙虚な言葉を聞きながら瞬時、『病状六尺』の一節を思い起こしていた。(中略)
 「病状六尺」とは、絶体絶命の小宇宙である。子規は、絶体絶命を受け入れることによって、日常の風物をわがものとした。「写生」という「もの」を凝視(みつ)め、六尺の天地をわが「もの」として現前させたのである。(中略)だが、癌を病む確定死刑囚大道寺将司の小宇宙は、閉ざされた拘束四〇年の独房である。
 大道寺将司は、世界と人々の行く末に心を砕き、正岡子規の限界状況をはるかに凌駕しながら、ここに生き、生きるのである。

 と記されている。集名に因む句は、

  縮みゆく残(のこん)の月の明日知らず     将司
                  *残の月=まだ残っている月
 
 である。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておこう。

  蠅(はえ)生れ革命の実を食ひ尽す              
  雨蛙(あまがえる)人外(じんがい)の木に憑(よ)りつけり
                   大飯原発再稼働
  五月雨(さみだ)るるフクシマすでに忘らるる
  野分(のわき)立ち舌骨二片滑落(ぜっこつにへんかつらく)
  被曝せる獣らの眼に寒昴(かんすばる)
  加害せる吾(われ)花冷えのなかにあり
  北邙(ほくぼう)の煙を虹の片根(かたね)とす
                *北邙=墓地、埋葬地
     運慶作「仁王像」
  たうらうの競べてみたき力瘤(ちからこぶ)
  人外のひとに優しき断腸花(だんちょうか)
  (いき)の緒(お)を奪ひてしるき烏瓜(からすうり)
  月白や残さるる日を恃(たの)みとし
  冬青空(ふゆあおぞら)一条の傷深かりき
  見つべきをあまた残して雁渡(かりわた)
  癌を飼ふ身を寒中に晒(さら)し置く
  刑死なきおおつごもりの落暉(らっき)濃し
  螢火(ほたるび)の朽ちゆく時を象(かた)なせり



  大道寺将司(だしどうじ・まさし)1948年6月5日~2017年5月24日、北海道釧路市生まれ。


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