2018年6月11日月曜日

峯田國江「設えの半分済んで白雨かな」(「山河」352号より)・・・



 「山河」(山河俳句会)第352号、第45回「競作チャレンジ俳句」は、二つの縛りがかかっている。今回の課題は「半分」と「夏の季」である。その選句を引き受けているのだが、選ぶのは天・地・人各一句、と秀10句、佳が5句、毎回合計18句を選び、すべてに選句評を付けている。このブログでは、とりあえず天・地・人のみの評を挙げ、その他は句のみを挙げて紹介しておこう。


天、 設えの半分済んで白雨かな      峯田國江
  何の設えであろうか、あと少しで終わるのに、白雨となってしまった。空は明るい。すぐにも止むだろうから、雨をやり過ごしてから、また始めればいいか、そんな気分もある。何気ない光景だが、なかなか味わい深い句というべきか。

地、 緘の字は半分掠れ夏終る        島崎きく子
 封をした「緘」の字が掠れ筆になってしまったのであろう。あるいは、誰からかいた
だいた便りなのかも知れないが、経年のせいか、陽に褪せて「緘」の文字が半分掠れ
てしまったのだ。立秋も近い「夏終る」には、封書にまつわる人への愛惜の気持ちが
表れている。                  

人、 真蛇とは半日影なりさがしもの    津のだとも子
  「真蛇とは」、能面の(しんじゃ)の面のことであろう。般若のなかでも、もっとも罪業  
   深く、蛇の顔になっている面である。蛇も日陰も夏季だが、この句では季節感以上にひとえに  
   真蛇、半日陰が、作者の表現意図の比喩として作用しているそれが探し物であるというのだか
   らなおのこ

秀、 半分こに大小のあり西瓜割       中谷 耕子
   半分は聞こえぬふりの蟇        新江 堯子
  愛国心半分上げます立夏        吉田 慶子
   半分は蛍の化身生臭し         小池 義人
   半分の客は帰りぬ月見草        田中 雅浩
   老鶯や昭和半分絵空事         広本 勝也
  油照半分世田谷交差点         近藤 喜陽
   とりあえず話半分ところてん      平林 敬子
   半分の西瓜いただく盛夏かな      吉田 キミ
   血族は村の半分凌霄花         桜井万希子
佳、 半分はこの世のままの水中花      山本 敏倖
   砂山の半分崩れ夏の果         国藤 習水
   板の間に半分出てる昼寝かな      山本 和子
   炎天下半分ベソかき母さがす      黒岩 隆博
   かき氷赤と青色半分こ         多田 文代
 
 すべての選句に順位をつけ、かつ鑑賞をするのは、真剣な気力を要する。それも甲乙つけがたい水準にあってはなおさらだが、それででも天・地・人くらいはキチンと決めなければ、引き受けた以上、役目が果せない。応募の各作者それぞれとの真剣勝負の選にならざるを得ない。愚生の好悪だけで決めるわけにはいかないのだ。一句としての出来はいかがと問わなければならないからでもある。ともあれ、こういう機会をいただけるのは、愚生自身の句の在り様を見つめ直すにもよいチャンスだと思って、勉強させていただいている。


 ところで「山河」の前代表は松井国央だが、「現代俳句」6月号にテーマ「指輪」で感銘深いエッセイを寄せておられる。それは「ラッキーストライクの緑は戦場へ行った」という煙草の広告のコピーから書き起こされ、戦時の供出品として義務付けられた金属類、父親がその職業がらプラチナや金を加工してパイプの一部などにして、その供出を回避していたこと、幾度となく憲兵隊に踏み込まれたことなどがあったという。そして、このエッセイの結びには、自身のアンビヴァレンツな思いが、以下のように記されていた。

  今、こうしたパイプの一部が、僕の指輪に作りかえられている。かつての国家や戦争に対する、父のささやかな抵抗のシンボルとして、この指輪を誇らしく思うべきか、それとも戦場に散った多くの日本人への裏切り行為のシンボルとして考えるべきなのか、自分自身でいまだに結論が出せていない。


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