2018年6月1日金曜日

小泉瀬衣子「レタスちぎる血の一滴も流さずに」(『喜望峰』)・・

 


 小泉瀬衣子第一句集『喜望峰』(角川書店)、集名に因む句は、

  喜望峰の風を想像すれば夏     瀬衣子

序句にして祝句は、

  喜望峰にもつとも似合ふ虹の橋    大牧 広

序文の仲寒蟬はいう。

 松茸は見事に危機感が足らぬ

 一読噴き出してしまう。松茸をこのように詠んだ俳句があったろうか。俳句というのは難しい。百人が百人そう感じることを言っても仕方がない。それは俳句でなく単なる呟きだ。しかし、百人のうち一人しかそう感じられないことを詠んでもだめだ。誰も共感できないものは単なる独りよがりに過ぎない。大多数の人が思いもよらなかったことを詠み、かつ大多数の人から共感を得られる、これが本当に優れた俳句。小泉瀬衣子にはそのような俳句の種を嗅ぎ分ける能力が備わっている。謂わば俳句の神様が彼女の傍にいるのである。

 仲寒蟬の作句への指針、俳句観でもある。その意味では、著者は少なくない句歴を有しながら、むしろ遅い句集刊行なのかも知れない。最近は、昔に比べると句集を出すための閾がどんどん低くなっているので、貴重な姿勢でもある。
 愚生は初めて知ったのだが、大牧広の息女でもあるらしい。天性のものが潜んでいるのかも知れない。それを寒蟬は「俳句の神様が傍にいる」といったのであろう。
 著者「あとがき」の冒頭には、

 俳句を始めたのは父が主宰する結社「港」の創刊と同じ平成元年。
 本年で三十年ということになるが、「俳句」というものは私が幼い頃より「お父さんは句会へ行って居ない」というように、父と共にあるものとして存在していた。
 そして私は、はじめての句集を編むことになった。

と記されている。ともあれ、集中よりいくつかの句を以下に挙げておきたい。

   花冷の君は真水の匂ひがする    
   県外車強制迂回神輿くる
   遠花火三菱地所のビルが邪魔
   父の客居て父居らずきりぎりす
   誰も切らぬから誰も食べられぬ西瓜
   一等はグアム二等は兜虫
   春の風邪にしては薬が多すぎる
   無粋とは水着売場の三面鏡
   万緑や民を見捨てる国なれど
   外套のドイツでならば似合ふ色
   八時十五分油蟬鳴いてゐる
   追悼をされぬ命や寒月光
   クリスマスツリー飾らず原発事故以降   

小泉瀬衣子(こいずみ・せいこ) 昭和38年、東京生まれ。



          撮影・葛城綾呂 オーニソガラム↑
 



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