2018年6月21日木曜日

中西夕紀「木の高さよりも飛ばず春の鳥」(「都市」6月号)・・



「都市」6月号・通巻63号(「都市」俳句会)に、仁平勝「五七五のはなし(二)」が連載されている。彼の近著『シリーズ自句自解ベスト100仁平勝』にも俳句の切れについて、繰り返し強調されていたが、切字についての話が冒頭に出てきている。それは、当然と言えば当然なのだが、いわゆる俳句と発句を明確に分つものは何か、ということでもある。近年の多くの論が、近代俳句の行き詰まり?を縫うかのように、江戸期の俳諧から、ひと続きの地平に俳句はあって、座というものもみごとに継承されているという晴朗な言いようが目立つようにおもうのだが、なかなかどうして、俳諧から俳句への道はそう簡単ではない。さすがに、仁平勝は、その辺りを誘導した山本健吉の論に、実に判り易く切り込んでいる。たとえば、山本健吉の「挨拶と滑稽」の一文について、

  そこに「今でこそ作者たちに軽んぜられている」と書いてあるように、それまで切字は、ただ発句の遺産として漠然と引き継がれていた。それを「季題の約束以上に重い」といってみせたのは、山本健吉が最初だと思う。
 ただ、ひとつ反則がある。「白冊子」には「切字」なくては発句(・・)の姿にあらず」(傍点は仁平)と書いてあるのに、「発句」が「俳句」に変えられている。ズルといえばそれまでだが、ようするに山本は、現代の俳句を発句に戻したかったのである。

さらに、

 でも、もういちど確認しておきたいのは、「切れ」とは句末で切れるということだ。くどいようだが、この基本的な認識を共有しないと議論が噛み合わない。

 として、石田波郷の切字論を引いている。詳細と興味のある方は「都市」を読まれたい。どうやら長い連載になりそうです、と結んでいるが、愚生には、当分は「都市」を読む楽しみができた。次号は、川柳について書くとも予言されている。

 俳句の本質は、五七五という定型の不安定さにある。「切れ」の議論はここから始まる。同じ五七五でも、川柳に不安定さはない。だから「切れ」もない。

 と、ともあれ、同誌特別作品から以下に・・・、

   鎖す扉に如来の闇や梅の花      中西夕紀
   いつさいを置き春星へ放たれたり   田中聖羅
   春愁やみんなぬきたるコンセント   大木満里




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