2018年6月20日水曜日

阿部青鞋「虹自身時間はありと思ひけり」(『カモメの日の読書』より)・・



 小津夜景『カモメの日の読書』(東京四季出版)、副題に「漢詩と暮らす」とあるように、小津夜景流超訳漢詩+エッセイ本である。冒頭に漢詩の原文があり、その訳出があり、そしてエッセイが置かれている構成なのだが、漢詩の門外にある者には、小津夜景の訳詩とエッセイがあれば十分という感じの書でもある。もっとも、謝希孟「芍薬」の原詩に対して小津夜景訳と小池純代訳と那珂秀穂訳の三様の違いは、それぞれ面白く読めた。また、巻末の「本書に登場する主な詩人たち」の註は、初心者には有難かった。
 ところで、ブログタイトルに挙げた阿部青鞋の「虹自身」の句には、

 (前略)この虹は「時間はある」と思うやいなやこの世を去ってゆく。つかのまこの世にあらわれた虹にとって「時間がある」との認識は、とても短い虹の一生における辞世の悟りだったのだろうか。
 わたしが虹に感じていたのは、つまるところこの世のはかなさにすぎない。とはいえそのシンプルな認識を空に投影するとき、わたしは今でも小さなころと同じ気持ちになる。かつてとちがうのは、空をながめてかなしくなるとき、あたかも「もう一度わたしを見送りなさい」といったふうに、わたしのもとをふたたび虹が訪れること。すなわち、じぶんじしんの涙の中に虹がたつしくみを発見したことくらいだ。

 と、なかなか美しく記されている。とはいえ、「ロマンチックな手榴弾」と題された「『悪い俳句』とはいったい何か?」では、その独特な小津夜景の感性、感覚を思うことができても、いささか肯えない美しさだった。

  すなわち次のような条件を満たしているとき、その句は思わずぎゅっと抱きしめたくなっちゃうほど「悪い」のではないでしょうか。
 ①悪い俳句(=ノワールな俳句)とは、親切な読者ないし読解よって昇華されることをかたくなに拒む、強がりな芳香を放っている。
 ②友のいない、孤独な、この世の外道である性(さが)が、じんわりとにじみ出ている。
 ③この世のすべてを強奪したかのような華やぎと、実は何ひとつもっていない素寒貧(すかんぴん)の哀しみとが、同時に浮き彫りとなっている。
④かがやいていて、せつなくて、ただそこに転がる、最高にロマンチックな手榴弾である。

街角に薔薇色の狼の金玉揺れる    山本勝之

 愚生は、長年俳句をやってきたせいか、句の評価にはどうしても厳しくなってしまう。それでも、三橋敏雄の「かもめ来よ天金の書をひらくたび」や西原天気「てのひらにけむりのごとく菫(ヴィオレッテ)」、石原吉郎「花ひらくごとき傷もち生きのこる」などに出会うと、嬉しい気分になるし、「無音の叫び」と題された土屋竹雨「原爆行」などに出会うと漢詩も悪くないな、と思うのだった。

  夜半いくつ越えて重なる舟の春     夜景

小津夜景(おづ・やけい)1973年、北海道生まれ。



           撮影・葛城綾呂 ナスタチウム↑

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