2018年10月1日月曜日
夏石番矢「誰も見つめられない津波に消された人たち」(『俳句の不思議、楽しさ、面白さ』より)・・
武馬久仁裕著『俳句の不思議、楽しさ、面白さ』(黎明書房)、本書の副題に「-そのレトリック」とある。帯の惹句には、
あなたの知らない俳句のワンダーランドへ招待! ●なぜ、俳句は横書きで鑑賞してはいけないのか? ●なぜ、碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」は「赤い椿」が先にくるのか? ●「麦秋」は、本当に秋とは無関係な季語か? ●「六月」は、どうして不思議な月なのか?
表4には「この本を読んで楽しく遊んで下さい」とあるが、確かに分かりやすく、やさしい文章で書かれていて、非常に読みやすい本である(だが、内容は深い)。そして、いたるところに著者・武馬久仁裕の独特な眼差し、俳句の読みをめぐる卓見が散りばめられている。例句は多く、俳誌「ロマンネコンティ」や彼の所属している「船団の会」から引用されていると「あとがき」にあるが、その他に、彼の師である小川双々子や、かつて同時代を共に生きた攝津幸彦などの句の読みも的確で魅かれるものが多い。
その攝津幸彦の「階段を濡らして昼がきてゐたり」の句は擬人法(活喩)が用いられているけれども、
おそらく作者は擬人法で意図的にこの句を作ろうとしたわけではないでしょう。結果として擬人法と名づけられたレトリックを使った句にすぎません。さらに言えば、私が、擬人法の句としてこの句を読んだから、擬人法の句となったのです。(中略)
ほとんどの俳人は、最初から擬人法で、あるいは直喩で、暗喩で作ろうと意図して句を仕立てるわけではありません。
そのように書いた方が、句にリアリティがあるからそうするだけです。
ここには、実作者でもある武馬久仁裕の経験が生きている。
ブログタイトルに挙げた夏石番矢の「誰も見つけられない津波に消された人たち」は、第25章「核のの書き様」の「2『三・一一以後』の書き方」、ここにも著者の心ばえが光っている(誰も俳句の本、それも入門書めいた本にこういうことを書きはしない)。
「津波に消された人たち」は「誰も見つめられない」。
そして、「津波に消された人たち」を「誰も見つめられない」。見つめるべき人たちも見つめられるべき人たちも、一瞬の内に「津波」によって消滅してしまったのです。
誰もが消滅し、互いに見つめ合う関係も消滅し、後には無人の曠野が果てしなく拡がるのみです。
と冷徹に読まれている。 ともあれ、各章題も面白い名づけなので、あげて各数句を以下に引用しておこう。
上にあるもの、下にあるもの
雪くるかからだのなかをくねり管 鳥居真里子
逆立ちは三秒ぐらい秋の空 平きみえ
はすかいの季語
クレヨン黄を麦秋のために折る 林 桂
逃亡を麦の秋とおもいけり 髙橋比呂子
表記と読み方の二重性
液体のやうな蔵書の昼の愛 攝津幸彦
釘箱から夕がほの種出してくる 飴山 實
ないと言ってもある(否定態)
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり 正岡子規
星はなくパン買って妻現われる 林田紀音夫
俳句の視覚化(視覚詩)
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典
くちなはのゆきかへりはしだてを曇りて 小川双々子
イメージの重なり(重層化)
春風や振っては散らす万華鏡 三宅やよい
風や えりえり らま さばくたに 菫 小川双々子
官能的な読み
おぼろ夜や少女の入りし試着室 山本左門
人類の旬の土偶のおっぱいよ 池田澄子
動詞で取り合わせ
金魚揺れべつの金魚の現れし 阪西敦子
手袋に人欺きし手を包む 髙柳克弘
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