2018年4月29日日曜日

久保田万太郎「時計屋の時計春の夜どれがほんと」(『どれがほんと?』より)・・



 髙柳克弘『どれがほんと?-万太郎俳句の虚と実』(慶應義塾大学出版会)、久保田万太郎(1889~1963)は、劇団「文学座」を創設し、俳誌「春燈」を創刊するなど、大正・昭和の文壇・劇壇に一時代を築いた人物である。その万太郎俳句の特質とは、どのようなものであったか、それらをよく追及し明らかにして、新たに万太郎俳句の魅力を引き出していると思う。まとまった一本としてはかつて成瀬桜桃子『久保田万太郎の俳句』(ふらんす堂)があるが、それも万太郎の句と人を描いて、実に面白かった記憶がある。それとは別の魅力を髙柳克弘は開いてる。
 また本著を執筆する契機を、ブログタイトルにした「時計屋」の句をあげ、「序論」で次のように記している。

 この句を虚心坦懐にみれば、きわめてモダンで、時間という概念の不思議さに切り込んだ、普遍的な詩情の句といえるのではないだろうか。
 下町に生まれ、その人情あふれる雰囲気を、衒いもなく書き取った俳人。-そんなレッテルを、剥がしたくなった。これが、本書を執筆するにあたっての動機である。

 いまどき、万太郎の句を論じる人が出てきたのだ、しかも若い人に、と、愚生はすこし驚いた。また、「時計屋」の句については第一章の結びに、

 この句を特徴づけるのは、まず第一に、口語文体であり、俳句にしばしば期待される風格や品格とは遠いこと。第二に、嬉戯する調子が強いということ。
(中略)
 だが、あらためて、この句は万太郎の自在さの成果であり、まぎれもない名句だと言っておきたい。虚実のはざまに言葉を紡いだ万太郎の、一つのことあげでもあり、絶対的に揺るがせないはずの時間すらが、春の夜の朧に呑まれて歪みだすという、「型破り」で奇妙な幻想の一句だからである。

 と述べる。さらに「結論」では、現代俳人・鴇田智哉(1969年生)と比較して、

 鴇田は、単純な現実を、複雑に書いている。そのために、中心的な価値観の見えない今という時代の気分に、肉迫している。
 一方、万太郎は、複雑な現実を、単純に書いてる。そのために普遍性を持ち得ている。
鴇田の句は「実」から出発して「虚」に至っている。対照的に、万太郎の言葉は、「虚」から始まって「実」に着地している。そのように言い換えることも出来るだろう。
 鴇田の世代にとっては、万太郎の句は、縁遠いものになっていくのだろうか。(中略)

はっきりしない空気感を書くという点で、冒頭に挙げた鴇田の句と、万太郎の句は、時代を超えて符号を果たす。(中略)

 確かなものなど何一つないというシニカルな認識の果てに、不確かで感覚的な記憶こそが唯一の真実であることに辿りついたのは、逆説的ともいえよう。そして、不確かなものを不確かなものとして読み手に伝えるという、刃の上を渡るような危うい試みを表現することができたのは、引き出した定型の力と、自身の¨芸¨の力をあわせもった、久保田万太郎という俳人であるからこそ、はじめて可能だったのだ。

 という。ともあれ、本書の中からいくつか万太郎の句を以下に・・

  あきかぜのとかくの音をたてにけり    万太郎
  春浅し空また月をそだてそめ
  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
  生豆腐いのちの冬をおもへとや
  竹馬やいろはにほへとちりぢりに
  がてんゆく暑さとなりぬきうりもみ
  さびしさは木をつむあそびつもる雪
  神田川祭の中をながれけり
  短日やされどあかるき水の上
  水中花咲かせしまひし淋しさよ
  したゝかに水をうちたる夕ざくら
  ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪
  風鈴のつひにかなしき音つたへ
     終戦
  何もかもあつけらかんと西日中

髙柳克弘(たかやなぎ・かつひろ)、1980年、静岡県浜松市生まれ。



            撮影・葛城 ハルジョオン↑



 

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