2019年4月9日火曜日

井口時男「紅灯とともに吹かれて寒の塵」(「てんでんこ」第11号より)・・



 「てんでんこ」第11号(七月堂)に、井口時男は「大寒の埃にごとく〈吉田和明〉追悼」と題して「てんでんここらむ」に書いていた。

 一月二十六日、吉田和明急死の報。私の一歳下。文芸ジャーナリズムの片隅で細々と食いつないで来た男だ。そして、酔った末の執拗な文学論で私が泣かせた二人目の男だ。(私はむかし、そんな飲み方を繰り返していた。)

 愚生は目を疑った。あの吉田和明か・・。愚生はもう10年以上、彼に会っていなかった。それは、愚生が地域合同労組の組合活動からすっかり足を洗ったからでもある。だから、彼に出会ったのもそうした抗議の社前行動の現場だった。それは、当時、彼が非常勤講師をしていた日本ジャーナリスト専門学校の急激なコマ数減に対する抗議、あるいは団体交渉促進のための、高田馬場近くにあったその専門学校への社前抗議行動に支援に行ったのだ(その後、略称・ジャナ専は解散閉鎖されたと思う)。
 愚生が彼に会ったのは、彼がちょうど『伝書鳩と三億円事件』を上梓した頃ではなかったろうか。会議では抗議行動への呼びかけのチラシを、いくぶん申し訳なさそうに手渡されたりした。また彼は、毎月、近刊の書籍を対象にした読書会を開催していて、その案内をFAXでいつもくれていた。愚生も1、2回は参加したかもしれない。しかし、だからと言って深く付き合っていたわけではない。会うと二言、三言の会話しかしなかったのだが・・。「こらむ」の結び日に井口時男は記している。
 
 木枯しに吹かれてふらふらと夜の街を行くあの痩躯を思い浮かべ、その後姿がふいに昏倒したまま息絶えたように思った。そして、しきりによぎる句があった。
   大寒の埃の如く人死ぬる   虚子
 これもよし、と思ったのだ。誰だって「埃の如く」死ぬのだから。そしてそれは、何より吉田和明という男にふさわしい死に方なのだ。(中略)
 一月二十三日朝、彼は路上ではなく、アパートの自室の布団の中で、目覚めぬまま死んでいたのだった。杖を必要とするほどのひどい状態で、何度も検査は受けていたが、病名はとうとう不明のままだったという。(中略)
 しかし、吉田の死には、やはり路上の方が似合う。
  紅灯とゝもに吹かれて寒の塵
 吉田和明よ、許されよ、私も同じ「寒の塵」なのだ。

 愚生も何かの縁で、彼を知り、井口時男を知った。その「こらむ」に彼の痩身の訃を認めることになったのも奇縁というべきか。合掌。ともあれ、同誌本号に井口時男「旅の手帖から 二〇一八年秋」の27句が掲載されている。いくつかを以下に挙げておきたい。

  秋惜しむ路地に「保田與重郎生家」   (桜井市)
  首塚や供花(くげ)やゝしをれうろこ雲 (飛鳥寺脇、入鹿の首塚)
  天川の秋へいざなふ「だらにすけ」   (電柱ごとに謎の看板「だらにすけ」)
  前鬼後鬼の炊煙のぼると見れば霧    (金峯山寺傍)
  秋山唄に共振れ(すいんぐ)もせよ大吊橋 (谷瀬の吊橋)
  霧雨も人語鎮めず奥の院        (高野山)

(注・「陀羅尼助丸」は胃腸薬、愚生の若き日、俳人・大西健司ゆかりの奈良の旅館で、事前に飲めば、絶対二日酔いにならないと勧められ、いまだに愛用している。)

 吉田和明(よしだ・かずあき) 1954~2019年。 



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