2019年4月11日木曜日

久保純夫「いつよりか軍旗を孕む櫻の木」(『定点観測』)・・



 久保純夫第12句集『定点観測ー櫻まみれー』(儒艮の会)、著者「あとがき」に言う。

 架空と固有の間。地名をひらがなやカタカナ、漢字でない表記、アルファベットを使用した場合、像はいかように変化するのだろうか。なんとなく島尾敏雄の短編小説を想い出しているのだが、確とした像は彼方に在って、なかなかこちら側にはやって来ない。ただ断片としての映像は鮮明である。そんな地に定点を設置し、観測してみた。そして櫻に関する「ものとこと」を用い、すべての俳句を書いた。かつて、俳句とは「状況への意義申し立て」と書いたことがある。そのような視点を少しでも書くことができたのでああろうか。読者として、作者へのさらなる宿題としておくことにしよう。

 ならば、その定点観測地点とはどこか。本句集にある手掛かりは、各3章に分けられた地名、それをわざわざローマ字表記にしているが、果たしてその意図を、少しは深く読め、と提示されているように思うのだが、愚生には、いまだその像を確実には結べないでいる。それはじつに簡単なことで、愚生がその地を実際に訪れていないか、たとえ訪れていたとしても、それを明確にイメージできていないという、ついにそれを留めおくことが出来なかったという愚生の怠慢ということになろうか。とはいえ、目次を引き写しておくと、

 Ⅰ IZUMI・MUSASHINO
 Ⅱ KUMANO・YOSHINO
 Ⅲ TSUYAMA・MIMASAKA

 である。作者よりの読者への宿題として、まだまだ手をつけられないでいる。ともあれ、集中より、ワケなどなく、愚生好みに、いくつかの句を挙げておきたい。

  軀からけむりはじめる櫻かな       純夫
  姿見にあまたの嫗櫻小屋
  合掌を解きそれからの青櫻
  遠近に赤子があばれ里櫻
  生き血のみならず滴り櫻の木
  土瓶から出でし櫻を注ぎけり
  幾とせを妖姫と呼ばれ櫻雨
  夕櫻鬼から人へ変わりゆく
  飛花落花ともに消えゆく赤ん坊
  転寝を犯しておれり黒櫻
  顋門を眺めていたる白櫻
  優婆塞のさくらをわたる術ふたつ
  天上に櫻のひらく迂闊かな
  暴走を諾っており花筏
  徐にくろがねとなる櫻雨

 久保純夫(くぼ・すみお) 1949年、大阪府生まれ。
  



★閑話休題・・芹田鳳車「草に寝れば空流る雲の音きこゆ」(「自由律俳句協会ニュースレター」NO.4より)・・


 自由律俳句協会で「俳句投句欄”自由律の泉”」を新設するという。

 投句は一句作者記名、選者は「白ゆり」代表の棚橋麗未。選ばれた作品には選評が付されるという。締め切りは、4月末日、宛先は、193-0832 八王子市散田町2-58-4 平岡久美子 宛(選評不要の方は申し出て下さい)・

 ニュースレターの連載は佐瀬広隆「自由律俳句への窓(2)」、その一節に、

 自由律俳句では、真の自分に行き当って自ずと生まれた俳句が自己の俳句ということになります。
 行き方は違ってはいますが、俳句の行き着くところは定型の俳句でも自由律の俳句でも同じであると思います。定型の俳句でも囚われない自由な表現になっていなければ俳句としての共感は得られないと思います。
 自由律俳句では、「一人一境」、自己の感性の物差しをひたすら磨いてゆく(虚子のいう、「深は新なり」、井泉水の「泉を掘る」)こと、真の己の表現を追い求めてゆくことが自由律の俳句の道を歩むことだと思います。

 あひたひとだけびしょびしょのはがきいちまい  平松美之(星童)
 蛍一つ二つ闇へ子を失うている         河本緑石
 盗みせし子の親へ椅子をすすめる        七戸黙徒

 と記している。「自由律のひろば」なきあと、どこか背水の陣の感のある自由律俳句協会である。さまざまな試みをしている。



 6月1日(土)から、渋谷のユーロスペースで映画『ずぶねれて犬ころ』(監督・本多孝義)がロードショー公開される(住宅顕信の地元岡山ではシネマ・クレール丸の内で5月17日~23日)。



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