2019年4月30日火曜日

金子兜太「戦あるなと起きて花野を歩くなり」(『俳誌総覧 2019年版』より)・・



 『俳誌総覧』2019年版(東京四季出版)、ブログタイトルにした句は、西井洋子の筆と思われる、同誌「編集余滴」結びに置かれた、八鬼歌仙「戦あるなの巻」の初折の表よりの孫引きである。「俳句四季」の「創刊35周年に寄せて」には、愚生を含めて54名の寄稿であるが、なかでも別格は、齋藤愼爾「平成の終焉、平成の精神」と筑紫磐井「俳句史とは何であるか」の論考である。その齋藤愼爾の論のなかほどに原満三寿についての言及がある。

(前略)原は「俳諧という構造が、日本文化の異端の装置として機能していた」ことを想起せよと主張する。俳諧を俳句といおうがなんといおうが、本来的に機能していた精神が形骸化していしまい、生々しく生きる現代の文化や生活の活性化に何ら寄与するところがないことを慨嘆する。原の俳句・俳諧論は大略「かつて俳諧とは徘徊であった。うろつき、さまよい歩くことであった。また俳諧の〈俳〉という字は、人と、そむく意と音を示す非(ヒ・ハイ)とからなる。〈人に非ず〉と示すように非人を意味していた。(中略)
「俳諧は論理や因果律に対し、常にノンである。俳諧を遠して、人間の生の世界の矛盾をあばき出し、克服しようとする。その時はじめて、〈人間が人間プラス何ものかになる〉。すなわち、人間に非ざるものになる。非人になる。俳人になる、自分を非人化する空間が俳諧なのだ。非人になるしたたかな覚悟がなければ、けっして俳諧は実現しないのである。」(「俳諧としてとしての俳句」)

 と述べ、あるいはまた、江里昭彦の、

(前略)そのとき有季定型俳句は、創造力が衰えても作品を量産できる〈果てしない反復〉の装置と化す。定型のうちで定型化された情緒を反芻(すう)していれば、いつまでも(これは死ぬまでと同義)俳人でいられるわけです。だから私は虚子俳句をターミナルケア(終末看護)だと思っています」(「虚子の近代は汲み尽くされたか」)

 を引用し、筆法鋭い。そして、

(前略)私は十代のときから金子氏に親炙してきたが、批判は自由であった。『いま、兜太は』(金子兜太、青木健編、岩波書店、平成二十八年十二月刊)にも「兜太への測鉛」を発表、批判を試みている。地上から金子氏は不在になったが、文学史(殊に俳句史)では生存している。闘いを終焉させるわけにはいかない。

 と結んでいる。あと一つの筑紫磐井の論考には、小見出しの「二、俳句史を考える」に、

 歴史をまとめ上げる力を「史観」と呼んでみたいと思う。「史観」が存在しなければ歴史はうまれない。近・現代俳句についても同様のことが言える。

として、結びに、

(前略)こうして、虚子が示した図式は兜太によって整理され分り易くなる。虚子は自分自身(②客観写生⑥たかし・茅舎⑦立子・杞陽らの虚子・ホトトギスに忠実だった人たちを含め)を客観的に位置づけてこなかったからどうしても兜太のような第三者的な史観が必要になるのである。それが虚子にとっても決して悪くはなかったことは、近・現代俳句史の中で二本の柱のひとつとして虚子ーつまり風詠的傾向が盤石であったことが分かる点である。そして後代の我々にも、俳句の可能性がはっきり二つであることを示してくれてるのである。
 【注】近・現代俳句史の最大の偉人である正岡子規は位置づけられていないが、私は「2、表現的傾向」の劈頭に、写生的傾向(子規・碧梧桐〉を位置づけてもよいと思っている。それくらい子規と虚子は相容れなかったのである。

 と記している。その他の寄稿は、「俳句四季」が35周年を迎えた祝辞に満ちているが、その中では、大久保白村「俳句の力は大間違い」は、実直に現在の俳句の状況を撃っていよう。

 (前略)この頃、殆ど聞かないが、「ペンは剣よりも強し」とは戦時中も聞いたような気がするが何故かこの頃とんと聞かれなくなった。(中略)
 戦後七十年以上を経過したいま俳句は本当の意味で力ある句を残しただろうか。
  歩き出す廊下の奥の戦争が   赤村
これは時事川柳作家の数年前の作品であるが、いまや確実に日本は戦える国に変貌しつつある。戦える国に変貌せざるを得ない問題が日本近海では数多い。
 その国際情勢に目を向けず、日本の俳人は「美しい国、日本」「俳句で平和を」というが、実作で勝負していない。 

 そのことは、たぶん俳句における表現の自由にも及んでいるに違いないのだ。渡辺誠一郎は、正岡子規の言葉を引用して言う。

 (前略)さらに初心者向けの言葉ではあるが、「俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし」とか、「俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり」とした大らかさが失われたように感じる。俳句表現に、もう少し開かれた空気が広がれば次の時代のエネルギーに繋がるのではないか。子規は句会においては、「先生」ではなく、「升(のぼ)さん」と呼ばれていた。そんな自由な俳句の場が大切だと思う。

と、穏やかなながら苦言を提している。以下は自選句一覧より。

  フレコンバックの中なる春の土のこゑ   正木ゆう子
  月光を攫いて戻らざる波か         岸本葉子



0 件のコメント:

コメントを投稿