2019年4月14日日曜日

大井恒行「雪花菜(きらず)なれいささか花を葬(おく)りつつ」(第5回「ひらくかい」)・・



 本日は第5回「ひらくかい」(於:府中市市民活動センタープラッツ会議室7A)だった。雑詠3句出句、選句は持ち点制で、一人6点持ち、ただし最高点は一句4点とする(一句に4点入れ、もう一句に2点を入れれば2句しか選べない)。従って、一句一点のみだと6句選べる。この方法での点盛りだと、一句一句の選句にも強弱が出てくる。それに予測できない面白さがある。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。




   はるきやべつめいろのでぐちきつとある ↑   鈴木純一
   花に濡れ岨を落ちゆく主従二騎         猫 翁
   笑みて去る衿擦りて桜東風           大熊秀夫
   花に雪喧嘩かぶりでゆこうかい        中西ひろ美
   船盛の骨美しき桜鯛              成沢洋子
   花を見をれば目まとひのののののん       渡辺信明
   添い寝して土筆と同じ空を見る         武藤 幹
   亡き友の谷中の桜見にゆかん        久仁郷由美子   
   根は風のうそぶく水を生きており        大井恒行





★閑話休題・・東國人「なぜ文語俳句なのか?」(「ペガサス」第4号)・・


「ペガサス」第4号(代表・羽村美和子)に「吟遊漫録」といういかにも子規をもどいた題のエッセイで「なぜ文語俳句なのか?」と、高校の国語教師であるらしい東國人が以下のように記している。

  私は、「や」「かな」「けり」という俳句はなるべく作らないようにしている。切れ字を用いると俳句が容易に作れてしまうからである。
 これからは、若い世代が自由に言葉を用い、新しい革新的な俳句を作るべき時代である。芭蕉も、子規も最初は俳句革新であった。

 という。切れ字をもちいれば、容易に俳句のようなものが作れてしまうのは、あくまで表面的なことで、ことは、それほど単純にはいかないのが形式のもっている奥のふかさだと思うが、たぶん東國人は、俳句界の現状の作品の余りのつまらなさにいらいらしているのだろう。なにしろ、戦後俳句の多くは、伝統派だって「や」「かな」「けり」は、なるべく使わないようにして新境地を拓こうとしたのだから、あながち、間違ってはいない。その志と奮闘をヨシとしよう。ともあれ、同号より、一人一句を以下に挙げておこう。

   早春の雑木林はピアニシッモ      中村冬美
   ジグソーパズル最後の一片春の星   羽村美和子
   丈六のあとかたもなし冬旱       檜垣梧耬
   仙人の肩を選んで冬の蠅        浅野文子
   「今日帰る」「元気でいろよ」七日朝  東 國人
   双六の途中の恋から抜けられず     篠田京子
   狐火がいつも方舟の正面       瀬戸優理子
   お小言は半分ハミング春の服      高畠葉子
   雪女成田の山を越え来たり      徳吉洋二郎
   丸腰のニッポン桜満開す        岡田淑子
   ヨガの呼吸法極め大白鳥        金子未完
   三陸鉄道終着は冬銀河          きなこ


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