2019年4月5日金曜日

中嶋鬼谷「大川を三月の水空襲忌」(『茫々』)・・・



 中嶋鬼谷第三句集『茫々』(深夜叢書社)、栞文は齋藤愼爾「状況の詩ー服はぬこと」、帯文は恩田侑布子、その惹句には、

 鬼谷は現代の市隠だ。寒山・拾得とともに囲む焚火の匂いがする。炎のむこうに、現代の危機を乗り越え、未来のいのちを呼ぶ芽吹山の風が聴こえる。

 とある。また、栞文の齋藤愼爾は、鬼谷の幾つかの句を挙げながら、以下のように述べている。

 「故山」「小林多喜二」「田中正造」「国病める」「草莽」「一遍」「服(まつろ)はぬ」など、花鳥諷詠派俳人たちは生涯用いることのない、縁なき言葉であろう。中嶋鬼谷氏に秩父困民党に関する著述もある。田中正造(一八四一ー一九一三)は明治期の政治家、社会運動家。足尾銅山鉱毒事件では天皇へ直訴し、鉱毒反対運動の活性化に尽力。同事件は明治二十三年(一八九〇)以降+数年間にわたって発生した日本近代史最大の公害事件。日本の〈公害の原点〉と一大社会問題となる。全国各地の鉱毒、煙害反対運動への波及を恐れた政府は、最終的な「鉱毒処分」を行うために第二次鉱毒調査会を設置し、日露戦争下、鉱毒問題を治水問題へとすりかえるなかで農民を分断し、一九七〇年、谷中村の廃村、遊水池化を強行した。(中略)
 中嶋氏と私は同世代である。私は六〇年安保闘争を「共産同」の指導下で戦った。「六・一五事件は安保闘争のもっともゆたかな思想の集約的表現であった」と吉本隆明氏は言明している。氏は単独で裁判闘争に入った常木守氏の特別弁護人を引き受けている。

 あるいは、また、「俳句ユネスコ文化遺産登録」の運動について、

 平敷武焦氏は「南瞑」三号(平成二十九年八月)で四団体が一堂に会することに奇異な感じを持つと表明。「中曽根氏は歴代首相の中で、日本核武装憲法改正を唱える右派政治家(略)〈アベ政治を許さない〉と揮毫した金子兜太氏が中曽根氏らと同席し、俳句のユネスコ文化遺産登録を呼びかけていることに強い違和感を覚える」という。全く異議なしだ。御歴々が晩節を汚した痛恨事であった。鬼哭啾々というべきか。

 と述べている。そして、著者は「あとがき」に、

 俳人は虚子の提唱した花鳥諷詠によって、自然を美しく詠ってきたが、そこに欠落していたものがあるとすれば、それは自然への畏怖であろう。
 人知を超えた自然の不可思議さへの畏れを抱くという、太古からの人々の生き方に深く学んでいたなら、人類は、決して地上に、核分裂による疑似「太陽」を造り出そうなどとは考えなかったろう。
 原発事故という国家犯罪は、自然を破壊し、人々から故郷を奪い、家族の団欒を奪い、詩の言葉を蔭らせた。(中略)
 では、真の文明とは何か。
「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。」
           (田中正造 明治四十五年(一九一二)六月十七日の日記)

 と言うのである。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておこう。

   畷ゆく人あり秋に入りにけり     鬼谷
   羽ぶきして巣箱に入りぬ雨の鳥
   白骨か砂か沖縄慰霊の日
     小樽
   ともづなに春雪重き多喜二の忌
   朽ち舟の中を見ずゆく遅日かな
   遠き沼光りぬ寒くなりにけり
     「続日本紀」
   秋澄めり古書に「太白昼見ゆ」と
   人界の鶴の病にをののける
   漢ありケルンを積みて還らざる
   山藤の山の荒みの花咲けり
   浜昼顔雨の柱が沖に立つ
   幾人の教へ子逝きぬ鳥雲に
   花びらの手話の指よりこぼれけり
     一八八四年冬、二十二歳の我が祖父「秩父事件」に参加せり
   青年あり霜踏み筵旗掲げ
   
 中嶋鬼谷(なかじま・きこく)、1939年、埼玉県秩父郡生まれ。
   

           撮影・葛城綾呂 ハナニラ↑

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