2019年4月12日金曜日
国光六四三「大門の外に青葉のしだれをり」(句文集『すまし顔』)・・
国光六四三句文集『すまし顔』(金木犀舎)、著者「あとがき」には、
句集「すまし顔」には、昨年夏までにつくった俳句で、神戸「円虹」、横浜「街」、京都「玉梓」、兵庫の新しい「いぶき」そのほかの俳誌、句会や新聞の投句欄などで選者の先生方にひろっていただいた作品から、三百句をえらびだした。行動記録のようなものになった。
十編の俳文は、おおむね昭和の俳句をめぐる評論で、インターネット上の個人ブログ六四三の俳諧覚書」の記事と合わせ、文章をくっつけたりひっぱったり、いくらか手直ししたものだ。古本を買いあつめたり、近隣の図書館や登場人物ゆかりの土地を訪ねたり、それなりに努力した成果物ではある。
とある。ところで、集名に因む句は、
秋祭帰る舞妓のすまし顔 六四三
であろう。俳文の章の「切字考」では、多くを切字の働き、効果について論じているが、彼自身ひよる新説が披歴されているわけではない。ほかに俳人についての論考があり、そのなかでは、「草城の革新 虚構文学としての俳句」が読ませる。その結び部分には国光六四三の志向がよく伺える。
(前略)俳句は、ただ現実の素材を写実的手法で描写するだけの記録・報告の雑文ではない。いくぶんかエンターテイメント性を愉しみながら周到にくみたてたフィクションによって、社会における人生の機微、自然から照射される人間の生命の真をとらえることができる芸術だと思う。むろん言捨(いいすて)の時代から続く談笑や慰撫の役割を担うことだってできる。
とも述べている。なかでも愚生がもっとも嬉しかったことは、寺井文子のことを書いた「無名の俳句」である。とはいえ、著者がいうほど無名であったわけではない、と思う。愚生もその名を誌に見つけるのを楽しみしていた一人だ。その「琴座」には、同齢に近い方に、清水径子や中尾寿美子、そして、南上敦子、山上康子、森川麗子などもいたように記憶している。加えて、国光六四三が書くように、「戦後の神戸俳壇で活躍し、結社誌だけでなく中央の総合誌にも作品を発表し、三重で新聞読者文芸欄に選者を務めたりもした」のだから、少なからず、女性俳人として注目されていたのではなかろうか。俳人の多くは無名でありながら、見事な俳句をひそかに作り、あるいは発表する当てなく作り続ける俳人の方が圧倒的に多い。それを忘れないでおくために、記憶にとどめる意味で、本集のような著者の仕事が大切なのであるといえよう。寺井文子について、
彩史は自らを「ロマンの残党」と称し、「厳粛なる抒情」を唱えた。これが「私の志」になったと彼女は書く。ロマンの残党とは草城の系譜をいうのだろう。
と記されている。寺井文子(てらい・ふみこ)、1923・1・5~2000・2・20.『寺井文子遺句集』は夫・田畑耕作によって上梓された。
本集の著者は、秀句鑑賞あり、俳句小説あり、なかなか多才の人。しかし、句よりもむしろ散文により彼の持ち味が発揮されているようにおもえる。例えば、秀句鑑賞の日野草城で、
ものの種にぎればいのちひしめける
大正十年頃の作。春まきの穀物や野菜、草花の種を手に握ったときの感触と音を活写する。のちにこの句を〈物種の握れば生命ひしめける〉としたのは、改悪ではないか。
と述べているのは、具眼の指摘でもっともと思う。
ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。
自転車の僧何処かへか花の朝 六四三
年の豆こぼして鬼と拾ひけり
退職の花束かろき朧かな
地下二階の学習室に冬来る
ビッグイシュー買ひ寒風の歩道橋
夜を寒み死に人ばかり現はるる
ふた椀の夫婦善哉うららけし
牡蠣殻を砕くコンベア湾霞む
国光六四三(くにみつ・むしみ) 1957年、兵庫県生まれ。
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