古田嘉彦第4句集『移動式の平野』(邑書林)、作品以外はてがかりの少ない句集だが、巻末に「工房ノートⅡ(後書きにかえて)」が付されている。因みに「工房ノート(後書きにかえて)Ⅰ」は第3句集『展翅板』(邑書林)にもある。その工房ノートに伏されている番号は29で終っており、本集は、30番から始まっている。従って、構成は前句集を踏襲している。なお、かなりの句に詞書が付されている。ブログタイトルにした句についても(詞書部分の活字のポイントは下げてある)、
痛みによって突然人間存在の限界が現れる。逃げようのない壁の中に私はもともといたのだ。四枚の壁が迫ってくる。十字架のキリストの痛みも。
白花曼珠沙華 ー速度ーを超えて嗚咽
と、いったように・・・。また、集名に因む句は、
涙でにじんでいるが克明で抽象的で言葉の限界に近付こうとする記述。痛みは形式を拒む。
移動式の平野に一人しかいないみなしご
であろう。ここで工房ノートの短いものを三つ挙げておこう。
33 感情は文脈を呼び寄せる危険性がある。全くの唐突、それが私の信実の表現のための場となるが、感情は唐突でなく文脈を流れさせ、真実を単純にするおそれがある。叙情は危険だ。
35 意識の中に見えているものを断念することによってしか、無意味を含む全体の幻には至れないだろう。十字架の聖ヨハネの祈りにも「すべてとなるに至らんためには 何ものかになろうと望んではならない」とある。しかしどこまで忘れたら隈なく忘れたことになるのだろうか。
48 私が時に書く詞書は、まっすぐ中心に接近しようとしており、また、俳句に対しては中心であろうとする。俳句には遠心力が働いている。
ともあれ、いくつかの句を以下に紹介しておこう。
フォーレの最晩年の弦楽四重奏曲、その密やかで現実からは距離をおいて嘆きに、私は二十歳のころから惹かれていた。その「晩年」にある、どこへも逃げようの無い最後の答に。
廊下まで入ってきた川は白夜
壮年の頃は空虚に植物に占領された図書室をはめ込もうとしたりした。今は空虚にふさわしいものを見つけるのが稀になっているようだ。
灯台はいつ起き上がるのか雨を呼び
落下の直線ではなく、めまいの勾配、曲線いばかり賭けていた。
水中で鸚鵡が住むときの装い
すべてのものは私に気づかれないようになることを試みながら、それでいて隠れたものを予感させつつ、注意をすれば私の注視を強く求めて私に迫る。
重さことわったのにゴブラン織り
加水を続けて濁りがどんどん薄くやがて透明になる、そんな死を迎えられれば。
処方箋は「降雨」とのみそして花韮に
毛糸玉作るはずが放射線状に老いていく
帯ほどけ糸になるまでの半日
濃淡つけた無音収録したCD配る
一歩ごと違うキリンになって訴える
琥珀の中で遭遇 命令が足りない
水彩で鼓動を描くと消えていく
その樹はいつから夜行性か声なのか
古田嘉彦(ふるた・よしひこ)1951年、埼玉県旧与野市(現さいたま市)生まれ。
撮影・鈴木純一「イヌタデ しあわせで悪いか」↑
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