2022年10月10日月曜日

米岡隆文「ハイクトハトワニカノヨニサミダレル」(「無限」創刊号)・・・


  「無限」創刊号(無限俳句会)、その「編集後記」に、


 年二回の発行で、五年で十号という小誌であるが、かつての篠原鳳作が「傘火」で目指した「総合俳誌」に少しで近づけるべく、評論は元より、短歌、現代詩を創刊号から掲載出来るのは嬉しい限りである。


とある。前田霧人「歳時記雑話/青水無月」の中に、


 「青水無月」は旧暦六月の異称の一つで、歳時記には「樹木が青く繁茂する頃であるからという」などとされる。(中略)古くて新しい季題であるが、用例はさらに平安期までさかのぼり、また、語意も全く異なるものであった。

  あかねさすあをみな月の日をいたみ

       扇のかぜぬるくも有るかな    (中略)

江戸中期の類書(百科事典)『類聚名物考』の「青六月」では、この歌について次のように記している。

 茜さすは炎天の夏日をいわんとして枕詞とせり。

 暑気さけがたくて扇の風もかいなしとなるべし。

 青六月は夏天みどりにして雲もなく陽気さかんなる故かく云えり。

「夏天みどり」とは、梅雨明けの後の碧天、晴絮れわたった青空の意であり、緑陰を髣髴する如何にも涼しげな現在の「青水無月」とは、まさに正反対の感がある。 


  とあった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。


  をみなごに花びらユウチュウブ二イクサ     上野乃武彌

  我何時か還る虚空や春の星           筒井美代子

  ふんはりと春の人らがたつてゐる         花城功子

  早朝の風に五パーセントの秋来る         松尾桜子

  河馬海馬どちらか酔っているのやら        米岡隆文

  花の雨どうせよみせもなにぬねの         稲垣濤吾

  はいくとはとわにこのよへさえかえる       前田霧人 

  渾沌の外の無限へ恋螢              綿原芳美



★閑話休題・・「アトリエグレープフルーツ3人展」(2022.10.2~10.16)・・

 昨日は、「アトリエグレープフルーツ3人展」(於:ぎゃらりー由芽のつづき・三鷹駅南口徒歩6分)で、書肆山田・鈴木一民と待ち合わせ、その後、武蔵小金井の愚息のワインダイニングの店「switch」で、コロナ前に行こうと言って果たせなかった約束をやっと果たした。彼とは、大泉史世と書肆山田を引き継ぐ以前からの付き合い、50年以上、同時代を生きたことになる。思えば、少ないながら、愚生の単独句集はすべて彼の慫慂に拠っている。40代の頃から、愚生の次の句集を「オオイズミとオレが生きている間に・・」と言われ続けていたが、愚生の怠惰ゆえに果たせなかった。


                ぎゃらりー由芽↑
 
         吉田廸子↑          小島顕一↑
                  井坂奈津子↑ 

 
 画集の巻末に寄せられた詩・藤原安紀子「オトナシクナイ」には以下のように記されている。紹介したい。

 オトナシクナイ  立ち上がれないものが和音で 絵筆が持てなくなっても庭は話した

まぶたをなくした みっちゃん せんせい なつこ

子どもでもない もちろん大人じゃない 甲虫でも四つ足でもえら呼吸でもない まぶたをなくした時空に はじめ ぬり絵をした 外からでなく中心から 見える色も見えない色もかさねた かくのじゃない うでやゆびやつまさきが探っている 

 ここ
触れた 
 ここ がすこし冷たい ちぢこまって 
 震えている みっちゃんは逆向きに線を引く
 なぞるのではなく線で器をつくる ひとまわり
 ふたまわり広く 泳いでもぜったい
 つかない岸をおもって 線を ひく ふりしぼって
 もえる もえて 熱になって草花がつぎつぎに
 目ぶく 庭を
 いまもつくっている



     撮影・鈴木純一「乃木まつり七つの星のまゝでやれ」↑

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