芦田麻衣子は、連載2回目「言葉とは何か」で、
森羅万象のそよぎをおのが心を通して聴き取り、幾千年の血の歴史の先端で「今」を生かされている私。そんな私の心「魂」と体で構築された『文学』の言葉は、私の生命を生きることと同義である。
と記したのちに、自らの詩集『虎走る』(1977年、昭森社刊)に収められた詩・「虎走る」についての成立の背景を明らかにしている。
じつは、愚生にとって「えこし通信」(発行人・中村文昭)は、初めて見るフリーペーパーである。さらに「詩と評論と文芸作品の詩誌」と通信名の下に書かれている。
今号の小特集は「伊藤比呂美をめぐってー娘VS母/少女VS人間」。対談者は中村文昭とクリハラ冉(なみ)。仔細をつまびらかにできる余裕はないが、中村文昭の名を認めたとたんに(思い出話に横すべりさせていただくと)、昔日の懐かしさを思ったのだ。それは、愚生の働いていた弘栄堂書店では、幾度となく会い、またその頃から、彼の文筆量の多さにも驚いていた。多くの著作があり、ただ、初期以後は愚生は読んでいない。長く、舞踏、それも暗黒舞踏系の批評を書き続けていたと記憶している。中野テレプシコールで偶然に会ったこともある。「江古田文学」などにも関係していたのではなかろうか。
ともあれ、今回興味を持たされたのは、対談の中で、
日本語は、一つは、短歌的発想系の文体、谷崎潤一郎に則して言えば流麗な文章。もう一つは、短歌的発想系の文体に節度を加えて生れた俳句的発想の文体。これは谷崎の言い方を借りれば、志賀直哉に代表されるような簡潔な文章。こういう二つのながれがある。女性で言えば、短歌的発想系の近代的な文章を作ったのは与謝野晶子であり、俳句的発想系の文章で言えば樋口一葉だと言える。(中略)
短歌的発想系の流れでできあがったのが、感情軸の詩人たちとその文体。俳句的発想系の流れでできあがったのが、実感軸の詩人たちとその文体。その二つを軸においた上で、実感軸を究めていくと思想軸の詩人に至るし、感情軸をきわめていくと暗喩軸の詩人に至る。
と述べて明晰なのだが、愚生は浅学にしてその腑分けの図式化に、確かにそうなのかも知れないと思いつつ、なかなか理解が進まない。嗚呼・・。
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