2016年5月30日月曜日
今井聖「パジャマ来て足から鯉幟になる」(「街」NO.119)・・・
「街」の巻頭連載論文に今井聖「試行燦々」=「名句に学びなし、なんだこりゃこそ学びの宝庫」というなかばヤケクソ気味とも思われる連載がすでに25回目を迎えている(けっこう面白く読ませていただいている)。
今回は、草田男の「蟾蜍長子家去る由もなし」を材料にしている。この句を読み解いていくわけだが、草田男のかたくなな季語ゼッタイ信仰については、以下のように正しく記している。
季語が一句にとって取り替えのきかないものであるのが秀句の条件という先入観があるからだ。結婚して幸せに暮らしている人に、別の人でもうまくいったかも知れないと発案するようなものだ。言われた側は怒り出すに違いない。でも試しに入れ替えてみるくらいはいいではないか。季語が唯一絶対のの神話はそこから本意をテーマにすとする俳句論議が生じ、ひいては俳句の可能性を限定することに繋がる。
この季語伝説は改めた方がいい。
最後に「草田男は平手造酒だ。/なんだこりゃこそ学びの宝庫」と落ちがつく。「大利根無情」を例にして「行かねばならぬのだ。妙心殿」、落ちぶれ果てても平手は武士だ・・・と説得するのだ。
ここでは次ページにある「街」推薦句「先鋒四十七士」にならって、愚生ならば、吉良の刃傷松の廊下ふうに仕立てて、「お放しくだされい、梶川殿!五万三千石所領も捨て、家来も捨てての刃傷でござる。武士の情けをご存知あらば、その手はなして、いま一太刀、討たせてくだされい、梶川殿・・」の場面だろう。
ともあれ、今号の「街」に、寄稿「特別取材」「北海道の異才=依田明倫」(l聞き手・栗林浩)に敬意を表して、依田明倫の句を、その中から拾おう。
焼酎売れずば飲んで減らしけり 明倫
ラッセル車母の霊柩車が続く
散水車じやおじやあパイプオルガンと正午
今も地雷原バリケードと白ぶだう
牛舎火事火の粉かぶりの川眠らぬ
麦秋↑
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