2016年5月25日水曜日
石牟礼道子「祈るべき天と思えど天の病む」(『石牟礼道子全句集ー泣きなが原』)・・・
「鬣」第59号の特集は、第14回「鬣」TATEGAMI俳句賞授賞の評で、石牟礼道子『泣きなが原』(藤原書店)と小宮山遠『林棲記』(創榮出版)について、それぞれ外山一機「いま、石牟礼道子を読むということ」と水野真由美「『林棲記の闇と光へー小宮山遠」が掲載されている。
石牟礼道子「祈るべき天と思えど天の病む」の句について、外山一機は言う。
これは本当にそれほど優れた表現なのだろうか。この句から「並々ならぬ物語性」(愚生注:岩岡中正)だとか「断念という万斛の想い」だとかを想起することが本当にできるとは僕には思えない。むしろ、そのような読みは「石牟礼道子」という名を併記してあるからこそ可能ではないのか。
だが、それよりも僕にとって興味深いのは、石牟礼をしてこのような無残な句を詠わしめた俳句形式の力である。(中略)
話を「祈るべき」の句に戻せば、この句の無残さの根源は、石牟礼が自らの足元にある豊かな言葉を呼び寄せることが出来るにもかかわらず、それを断ち切ったところからこの句を立ち上げたことにある。しかしながら、これは、俳句形式で表現するという行為が本質的に孕む暴力性を思えば当然の成り行きでもあった。
あと一文は水野真由美が冒頭に抽いた小宮山遠「夜を容れて水の器(うつわ)の遠江(とおとうみ)の句には、愚生、唐突ながら、河野裕子の短歌「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」を思った。
*閑話休題・・・
「風の花冠文庫」17として『定本三橋敏雄全句集』が本年8月に刊行される予定である(上掲案内広告↑)。この刊行は、ひとえに林桂をはじめとする鬣の会の諸氏の尽力によってその日の目をみることになったといっても過言ではない。定価はまだ決まっていないが、問合せ先は林桂、または鬣編集部(371-0018 前橋市三俣町1-26-8 山猫館書房 電話027-232-9321)宛である。是非、予約その他をお願いできれば幸甚である。
ビヨウヤナギ↑
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