2016年5月1日日曜日

座談会「虛と実」(「オルガン」5号)・・・


座談会「虛と実」は同人5名のなかで一同人からの質問状について、各同人が答えていくというかたちで、毎号行われている企画のようである。語りあうなかで、俳句の実作上の各人の工房の在り様が伺えて面白く読める。しかも、俳句の未来をどことなく信じようとする若い志もある。なかなか示唆に富んだ発言があり、愚生のような老人にも、改めて考えてみるべき問題の所在もある。例えば、福田若之の発言に、

  重信のように言葉に挑んでいく立場をとると、実際にあった出来事が俳句として結実するというあり方からは遠ざかっていくということです。そのときには、もはや嘘かどうかは問題ではなくなって、詩的飛躍の問題だけが残るでしょう。詩的飛躍は、もはや過去の経験的な事実からの飛躍ではなくなって、おそらく既存の詩からの飛躍としてのみ考えられることになる。

とあるのは、実に的を得ていよう。あるいは、また、田島健一は宇多喜代子が阿波野青畝のお宅に訪ねたとき、

そこに、何もない机があったそうです。そして青畝に「ここには何もないけれども、何か花があったほうがいいと思わないか」と聞かれて、「あったほうがいいと思います。と答えたところ、薔薇か水仙か問われて「水仙のほうがいいと思います」と答えたら、青畝に「いま、ここにはないけれど、水仙があったほうがいいなと思ったら、ここに見えてくる。それが写生です」と言われたそうです。

という件だが、この青畝を訪ねた折りというのは、確か、「俳句空間・第8号」(弘栄堂書店)で「さらば昭和俳句」の特集を組んだ時に阿波野青畝のインタビューを宇多喜代子にしてもらった時ではなかろうか。当時健在だった森田峠に仲介をしていただいて、実現したインタビューで、それが終わっての雑談で、まだ若かった愚生は「俳句にとって一番大切なものは何ですか?」と不躾にも青畝に尋ねた。即座に「それは言葉です」と返ってきた。愚生の予想はホトトギスの重鎮だった人がまさか「言葉です」と答えるとは思わなかったので、青畝の誠実な奥深さを肌で感じた一瞬となった。愚生の先入観もあって、「写生です」「花鳥諷詠です」というような平凡な答えを期待していたのかも知れない。平成元年の頃だったと思う。
ともあれ、各人一句を挙げよう。

   末黒野と菜の花の空隣り合ふ     宮本佳世乃
   春空もまぬがれがたく朝の朱     生駒大祐
   泣くさくら名前を書いた矢を渡し    田島健一
   海市では誰もが口をうごかせり    鴇田智哉
   岬で終わり繰りかえす春の夢     福田若之



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