2018年2月16日金曜日

野村朱燐洞「はるの日の礼讃に或るは鉦打ち鈴を振り」(「子規新報」第2巻第65号)・・



「子規新報」第2巻第65号は、特集「野村朱燐洞の俳句」である。朱燐洞(しゅりんどう)は本名守隣(もりちか)1893年11月28日~1918年10月31日。享年26.現松山市小坂生まれ。号ははじめ短歌を学び「柏葉」と号し、俳句においても当初は「柏葉」。「層雲」では朱燐洞、さらに朱鱗洞と使い分けた。23歳で「層雲」選者になり、後継を期待されたが、スペイン風邪、今でいうインフルエンザによって脳膜炎を併発急逝した。
 本誌の特集のなかでは、とりわけ寺村通信・小西昭夫の対談が面白く、かつ大よその朱燐洞像が窺える。松山では朱燐洞は子規の再来と言われたとか、朱燐洞の墓は見つけることができたが、昭和45年に大分で発見された位牌は、再び行方不明になっているとか・・・。あるいは、朱燐洞「かゞやきのきわみしらなみうちかえし」の句は、俳句的な音律で、分析すると、普通の五・七・五とは違う、「かゞやきのきわみ、しらなみうちかえし」で在来とはちがい、今でいう「句またがり」の手法など、当時では新鮮なリズムだ・・・とか。
 そして、小西昭夫は「編集後記」に、

 ぼくや東英幸、岡本亜蘇は幸せなことに生前の高木和蕾と何度か句座を共にすることができた。和蕾は川本臥風時代の「いたどり」に参加しており、われわれも旧制松山高校俳句会、その後身の愛媛大学俳句会を御指導くださった川本先生とのご縁で一緒の句座を囲むことができたのである。
 和蕾は、種田山頭火の松山時代には山頭火と一緒の句座を囲み、山頭火最後の句会にも同席していた。山頭火の人気が高まってくる中でも、和蕾は「わたしは朱燐洞の弟子です」と言い続けたことが今でも強く印象に残っている。

と記している。ともあれ、朱燐洞のいくつかの句を挙げておきたい(引用句は、子規新報と層雲第三句集『光明』より)。

  ついついとんぼいつまでの夕明りかな    
  そぞろ歩くにあたたかく星かくれたり
  人は林にいこひ林の鳥は啼き
  するする日がしづむ海のかなたの国へ
  墓を去らんとし陽炎うてをるよ
  陽のましたへ舟をやりたしうしほがあふれ
  小鯛きんきん光りはねしが手にしたり
  闇にすっかりひらいたる桜にあゆむ
  空仰げば紺青の海高まさる
  かゞやきのきはみしら波うち返し






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