2018年2月19日月曜日
井口時男「はまなすにささやいてみる『ひ・と・ご。ろ・し』」(『永山則夫の罪と罰』より)・・
井口時男『永山則夫の罪と罰』(コールサック社)、懇切を極める解説は、コールサック社社主の鈴木比佐雄。その結びには以下のように記してある。
大谷弁護士は『ある遺言のゆくえ 死刑囚永山則夫が残したもの』(永山こども基金編)の中で、〈一九九七年八月一日、永山則夫は死刑に処せられる直前、「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、特にぺルーの貧しい子どもたちのために使ってほしい」と遺言を残した。〉と記している。その意志を実現するために設立された「永山こども基金」は、遠藤誠弁護士亡きあとも大谷恭子弁護士や市原さんをはじめとする多くの人びとによって今も持続し運営されている。そんな子どもたちの幸福と自立を願う志の中で、永山則夫はこれからも生き続けるに違いない。
また、著者「あとがきー永山則夫と私」の中では(少し長い引用になるが)、
人生の軌跡には、どうしても「宿命」としか言いようのない様相がある。永山の生の軌跡にも、丹念にたどれば、このようにしか生きられなかった彼の「「宿命」が見えてくるだろう。「貧しい」人間は生の選択可能性においても「貧しい」のであって、貧困というものの人生論的な意味(傍点あり・・・・・・・)での恐ろしさはそこにある。ましてや永山は視野も狭い「無知」な少年だった。
この観点を徹底するとき、「自由意志」などというものは虚構の観念でしかないのではないか、とさえ思われてくる。人はただ、自分でもわからない無数の錯綜した諸原因に強いられて行動しているだけではないのか。だが、たとえ虚構であっても自由な意志を仮定しない限り、人間の尊厳は保てない。そして、自由な意志が判断し選択した行為の結果に対しては、人は責任を負わなければならない。
本件の四件の犯行のうち、最初の二件は偶発的なものだが、あとの二件のタクシー運転手射殺は強盗目的の意図的な犯行である。彼は取り返しがつかないという絶望の中で、「せめて二十歳のその日まで、罪を犯しても」生きることを決意したのだったから。「せめて二十歳のその日まで」生きる(傍点あり・・・)という永山の決意は二十歳になったら死ぬ(・・)という決意でもあった。そもそも、十七歳での一回目の横須賀米軍基地への侵入の時から、永山の犯行の裏には、いつもぴったりと自殺願望が貼りついていた。
と述べている。永山則夫は1968年10月から11月にかけて、東京、京都、函館、名古屋と4人をピストルで殺害した。翌年4月7日に逮捕され、当時19歳だった。彼は1949年(昭和24年)6月 北海道網走市呼人番外地で 8人兄弟の7人目の四男として生まれた。愚生とは一歳違いである。愚生が故郷山口を18歳であとにし、京都にしばらく暮らすことになったときに、八坂神社でその一つの殺人事件は起きた。そしてのちに出版されることになる彼の獄中ノート『無知の涙』によっていくばくかのことを知るのだが、明確に永山則夫を意識したのは、愚生が組合活動をしていた頃、今思えば、今よりはるかに死刑廃止運動が推進されて、高揚のしていた時代に、そのさなかで死刑が執行されたように記憶しているのだ。
愚生は、本書の井口時男のように永山則夫に関わったわけではないが、本書には、永山則夫を語りながら、やはり著者自身の思考の切実な有り様を、傍からみている自分に気づかされるばかりである。
ともあれ、俳句を読むことはぼくにもできるかもしれない、と思うので、井口時男が「てんでんこ」第9号(七月堂)に掲載した句群「句帖から 二〇一七年 付・連作『タバコのある風景』」からいくつかを以下に紹介しておこう。
岩牡蠣や若き漁師の咽仏
松之山・坂口安吾記念館(村山家旧宅)
玄関正面の大花瓶に十本ものまむし草が無造作に挿してあった。
まむし草活けて安吾の一睨み
つゆくさに黄金(きん)の蕊あり原爆忌
水の秋鷺は鷺どち鵜は鵜どち
故・光部美千代さんに
宮坂静生氏によれば、光部さんが信州大学の学生句会で最初に作った句は〈ヒヤ
シンス日数かぞへてごらんなさい〉だったという。
消息は以来途絶えて風信子(ヒヤシンス)
ピーカンの空の翳あり原爆忌
秋天やタバコ手向ける墓は一つ
ライターの燧石(ひうち)が軋る寒鴉
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