2018年2月7日水曜日
中川智正「一会(いちえ)なく訃報ありけり麦の秋」(「ジャム・セッション」第12号)・・
「ジャム・セッション」第12号(JAN.2018・非売品)は、年2回刊行の江里昭彦の個人誌である。ブログタイトルにした句には、「大道寺将司氏の病死に二句」の前書きがあり、「あとがき」に江里昭彦は、
(前略)同一の建物内で暮らしながら、死刑囚同士を頑として接触させない当局の厳重管理により、二人は、北極と南極ほどの遠さに隔たっていた。「一会なく訃報ありけり」の嘆息が、ひえびえと滲みる。
と記している。前書の付された残りの一句は、
虹ひとつ消えて我らの前の虹 智正
である。
また、別のエッセイ「人生がうまくいかないということ」で、江里昭彦は、中公新書『世代の痛み』の上野千鶴子と雨宮処凛の対談を引用しながら、雨宮処凛の「わたしも95年の地下鉄サリン事件以降に、猛烈にオウムに入りたいとおもいました」という発言を「貴重な発言」と記し、
サリン事件のころに雨宮さんが感じた「生きづらさ」に、いま、別の種類の生きづらさが重なり、加速し、現代の日本社会はますます険悪になってゆく。
と述べている。さらに本誌「あとがき」では、雨宮処凛の「国民年金も、掛金が払えないので入っていない人が多いし、正社員などの特権階級に属している人しか、老後を迎えられない」や上野千鶴子の「健康と収入の疫学的関係を調べると見事に相関しています。寿命と経済階層も相関関係にあります」という内容に対して、
ここでは老後問題ではなく「老後ないかもしれない問題」が提起されている。同じ日本社会のなかで暮らしながら、団塊世代と団塊ジュニアとでは、見える光景がまったく違う。そこに気づかなかった。
とも述べている。じつはその団塊世代にだって老後破産がしのびよっている。愚生だって、実娘の家に転がり込んでいなければ、いまごろはそうなっていたかも知れない(家族共同体というセーフティネットにかろうじてひっ掛かっている有り様)。年金だけでは暮らせない、さりとて生活保護の対象にはならない、福祉の恩恵を受けるにはその水準をクリアーできない、限りなくボーダーライン上の生活なのだ。さすれば健康維持しかないのだが、老人ともなれば、皆が健康でいられるとは限らない。いわば安倍政権の一億総活躍時代の中味は、好むと好まざるとに関わらず、優雅な隠居生活は無理なので、死ぬまで働き続けろということらしい。
本誌の他にも『高江が潰された日(写真と文)』(沖縄平和サポート)のコピーが同封されていたり、愚生には興味深いものばかりだった。深謝。そういえば15年ほど前、愚生が、まだ地域の合同労組の前線にいたころ、雨宮処凛に講演をお願いしたり、短い時間だったが、沖縄平和行進に参加した折に、オスプレイの配備される前の高江のヘリパッド建設反対、そして、辺野古の海にも座り込んだことを思い出した。今はと言えば無為に、たまに俳句を創って、シルバー人材センター(健康であれば80歳でもオーケー)の請負(労働基準法適用除外)先で、一億総活躍時代の一翼担わされて?いるのだ。これも人生ということだろう。
ともあれ、同誌より以下に一人一句(一首)を・・・。
なんにもない部屋に卵を置いてくる 樋口由紀子
米国海軍元長官(第七十一代)リチャード・ダンジック氏と面会して
長官の後は一気に冬将軍 中川智正
骨壺やほねを拾えど歯は棄てて 江里昭彦
終い湯にいつも来ている青年のまたたくましきいれずみに会う 浜田康敬
わが猫背誰かに見られ冬田越す 小宮山遠
菜種梅雨ダンボールより足二本 椎名陽子
撮影・葛城綾呂↑
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