『自句自解ベスト100 対中いずみ』(ふらんす堂)、巻末に「私が大事にしている三つのこと」が、いわば、対中いずみ俳句入門なのだ。その三つとは、「季語―移りゆくものへの愛惜」「定型―ことばがぴたりと嵌ること」「心―あるいは肉声」である。まず、
私にとっての季語への愛着は、たぶん、移りゆくものへの愛惜にひとしい。すべては諸行無常、変化の中にある。木の芽がほんのすこしほぐれたり日差しの傾きが変わったり、鳥がふいに啼きやんだり。(中略)そして出会ったものは、常に変わること。別れることを含んでいる。移り変わるものへの愛惜—それは今日の出会いに謝し、惜しむ心である。
と記されている。また、
俳句という小さな器に、適量のものを簡潔に言い止めることができたら嬉しい。小さな器に過重な負担をかけるのではなく、集中し、抑制し、言葉少なく詠む。俳句が定型詩であること、それはある種の制約ではあるが、制約のなかにある自由は、うっすら蜜の味がする。
そして、
でも、「客観写生」の旗印がもたらした弊害もあるのではないかしら、とこのごろ思う。あまりにも「もの」が強調されすぎるとなんだか唯物論のようにも思えてくる。しかし、俳句は詩であるということは、そこに心がある、ということだ。
第三句集『水瓶』を編むときに落とした多くの句は、たぶん、ここに引っかかった。選者に特選に採られた句であっても、一見上手にできていても、自分の心をくぐっていないと思われる句は外した。
と、あった。対中いずみの師は田中裕明である。自句自解をひとつだが、紹介しておこう。
木と並び春の鷗とならびをり
裕明先生没後も「ゆう」仲間と吟行を重ねた。島田刀根夫さんほか、いつものメンバーといつもの手順で吟行し句会をした。そこに裕明先生がいないことがたまらなくさびしかった。〈石畳のぼりつめたる芽吹かな〉〈初花に佇めば人ゐなくなり〉。百合鷗に「春」と冠しても「芽吹」を詠んでも、「桜」が咲いてもさびしくてたまらなかった。ほんとうにさびしい春だった。 (『冬菫』)
以下は、いくつかの句のみになるが、挙げておきたい。
夜の空に白雲ながれ鉦叩 いずみ
ともに聞くなら蘆渡る風の音
母逝くを父に報せず薺粥
海に藻のゆらりとひらく涅槃かな
亡き人の眼をのみ畏る稲の花
一面の落葉に幹の影が乗り
刈られたる芒の方が美しく
鴨の水尾うしろの鴨に届きたる
みなひとのえかてにすとふ邯鄲よ
対中いずみ(たいなか・いずみ) 昭和31年、大阪生まれ。
撮影・芽夢野うのき「白業を花にほどこし冬揚羽」↑
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