「らん」91号(らんの会)、皆川燈の健筆ぶりは、「らん」の今号を縦横無人だ。まず、目に止めたのは「高柳重信小論ー〈蕗子〉とは誰だったのか。」。アトランダムになるが、以下に引用する。
(前略)重信の目指した「俳句」の創出は、定型の再生であるとともに自らの再生でなければならかった。定型を放擲せずにどこまで深く広く内部の詩の山野を描き尽くせるか。それは敗戦を経験した日本という国家をどこまで相対化しつつ、日本語の詩に迫れるかという試みでもあったのではないだろうか。 (中略)
重信は自身の内部を俯瞰しながら詩の鉱脈を掘り進めていった。『罪囚植民地』という命名は、この風土につながれつつ詩を書いていくことへの言挙げでもあるだろう。それこそが、子規によって命名され未だ存在しない「俳句」への、若い重信の渾身の挑戦の一つの結実であった。つまり〈蕗子〉は、「未来への郷愁」とでも呼んでみたい。この国を生きる日本語のミューズだったのだ。
さすがに耕衣の弟子らしく、結びは以下のように、耕衣に落し込まれるが、出色の高柳重信論であろう。
耕衣は重信の多行形式を「無頼異端の珠玉」であると評価しつつも「無尽の努力が宿っていて、在るツラサを覚える」という。そして山川蟬夫作品には「そのツラサを、自らねぎらうに似た美事という外ない『息抜き』の風趣」が多々あるという。「こんな絶景を、誰が一行形式の『俳句』で言い得たであろうか」と。それを「高柳生来の望郷的『童心』と看破する耕衣にはまいった。
とあり、巻末の連載「雨の樹のほうへ/清水径子の宇宙 53」では、『罪囚植民地』を例に抽きながら、
どう俳句にしたためても、癒すことはできない悲しみを、径子は重信の作品に感じたかもしれない。「杭のごとく/墓/たちならび/打ち込まれ」(重信)の激しく厳しい弔意を、径子は、「杭打たれまだあたたかき夜に逢はず」と、やさしく包んであげずにはいられない。
灯を捧ぐ//あはれ赦せと/雪ふる闇に
この雪の夜に捧げられた重信の孤独な灯は、
生きて着く伊勢海老灯をともすべし 径子
と、いのちを励ます「灯」となる。径子の句はどこまでも自然体でいのちの機微に寄り添っていく。やわらかい灯となって『罪囚植民地』の山野のそこここで蛍のように明滅している。
思ひ寝と見分けがくて病み蛍 径子
この他に「『琴座』の耕衣」(第12回)もあるが割愛。この先は、愚生の余談になるが、高柳重信は、「俳句は比喩ではだめだ。目の前に確かにあるように書け・・」と言っていた。大手拓次が好きだった重信は、たぶん、拓次のいうように象徴主義はかならず現実の契機をそこに含んでいる、といったようなことを考えていたと思う。いまは、歌人の高柳蕗子=実娘に「蕗子」と名付け、関東平野の「キの字は」、田野の中、斜めに続く電信柱を眼前に想起させる。代々木上原の「俳句評論」での句会の重信の名乗りは、当時「蟬翁(せみおう)」だった。「セミオウ」と名乗りながら微苦笑をもらし、一瞬、恥ずかし気に見えた重信の姿を思い出す。思えば、愚生が二十代初め、ずいぶん年長に思えていたが、重信はまだ50歳前後だったはずだ。
あるいはまた、敬して、永田耕衣は訝しい存在だ、ということも言っている。なぜかその意味はよく理解できなかったが、「俳句評論」誌では永田耕衣の特集が一度ならずある。
もうひとつ、「らん」で、このところ楽しみに読んでいるのは、もてきまり「らん流吟行記/攝津幸彦全文集『俳句幻景』を吟行する(4)」である。もちろん、もてきまりに見える攝津幸彦の風景なのだが、どう見えているかが楽しみなのだ。攝津幸彦が亡くなってから分かったことだが、みんな「ワタシのセッツユキヒコ」なのだ。かくいう愚生もそうだと気づかされたという塩梅だから、止むを得ない。それで、今回のもてきまりのエッセイで、改めて気づかされたのは、仁衛砂久子なる人物名が、実在者であったことである。エッセイをちゃんと読めばそうだ、ということは分かるはずだが、愚生には、どうもセッツの創作ではないかと思っていたフシがある。だって、かつて「朝日グラフ」の自己紹介欄に平然と血液型をBと書いて楽しむという韜晦の人で、彼が、検査入院するまでホントの血液型は、攝津夫人も知らなかったくらいである。ともあれ、以下に、敬意を表して、本号の皆川燈と、もてきまりの各一句を挙げておこう。
はつこいは噴水のいま落ちかかる 燈
蜘蛛糸にすがるカンダタ夏マスク まり
撮影・中西ひろ美「閉じて待つ種子(はね)になる日の光まで」↑
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