2020年11月21日土曜日

原詩夏至「鳴り響(とよ)む遠き槌音稲光」(『鉄火場の批評』より)・・


 原詩夏至『鉄火場の批評ー現代定型詩の創作現場から』(コールサック社)、帯の惹句には、


 原詩夏至の評論を読んでいると/歌会・句会が

 作家たちの「鉄火場の批評」となって/その情熱の火花が胸に飛び込んでくる


 とある。目次には、第一部を短歌(Ⅰ短歌時評 作家・歌壇、Ⅱ短歌時評 社会・思想哲学、Ⅲ短歌エッセイ、Ⅳ歌集評・解説)、第二部を俳句(1俳論・句集評、Ⅱ俳句とエッセイ、Ⅲ俳誌「花林花」一句鑑賞)とあるが、ボリュームは圧倒的に短歌評にある。愚生は俳人なので、俳句に関する部分をのみ紹介しておきたい。六林男には、少なからず、個人的な思い出もあるので、鈴木六林男の部分、


   オイディプスの眼玉がここに煮こごれる 

 世間一般の概念からすれば、随分奇怪な句だ。五・七・五の定型は(初句の1字字余り以外は)ほぼ守られており、季語(煮こごり・冬)もあるのだが、それにしても「オイディプスの眼玉」とは、余りに突飛かつグロテスク過ぎないだろうか。(中略)

 私はこれを晩年の六林男が自分の「生きざま」を一句に「煮こご」らせた、重く痛切な「境涯詠」と取る。「オイディプスの眼玉」—それは(「私は父を殺し母を犯した」という)余りと言えば余りに酷たらしい「真実」に耐えかねたオイディプスが自ら抉り取って捨てた「廃物」だ。そして、それは「どこか」でも「あそこ」でもなく、まさに「ここ」に「煮こご」っている—‐ということは、つまり、この「オイディプスの眼玉」とは、或る耐え難い「真実」の直視によって灼かれ、溶解して「煮こごり」と化してしまった、「ここに」いるこの六林男自身の「眼玉」「人生」-ひいては「存在」そのものではなかったか。

 それでは、六林男が見てしまった、その恐ろしい「真実」とは何か。「戦争」だ。


 と述べる。眼つながりで、「序にかえて」には、

 

  2012年に亡くなった母の若い頃の歌に、こんなのがある。

   ぎらぎらと野望を語る男の眼に点景として我も立たさる

 当時父は急逝して間もなかった。とすれば誰なんだろう、この「男」は、やっぱり、生前の父だろうか。そう思って尋ねると、違うと言う。何と、息子であるこの私だ言うのだ。仰天した。私は当時まだ中学生。知らないうちに、こんな「男の眼」で母親を見ていたのか。全く、何と言う少年なのだろう。(中略)

  春の船ゆつくり母を置き去りに

 後年、私が作った俳句だ。もう一句。

  若かりし母と花野を行く如く


とあった。


原詩夏至(はら・しげし) 1964年、東京都生まれ。



★閑話休題・・小林かんな「手袋を片方外す裸婦の前」(「Υ ユプシロン」NO.3より)・・


 中田美子の「あとがき」に、


 前回の作品集から一年、今年もまた四人の俳句を纏めることができた。ここに集まった水の音は微かで、自分たちでさえ、いつ石を投げたか分からない。それでも、それぞれの響きを楽しんでいただければ嬉しいと思う。


 とあった。各人50句、その一人一句を以下に挙げておこう。


   自転車は乗り捨てられて猫じゃらし   仲田陽子

   海胆加工専門店前虹立ちぬ       中田美子

   春眠や本に乗せたる鳥の羽根      岡田由季

   青葉風だれかのスピーカーが鳴る   小林かんな



         撮影・鈴木純一「猫砂をひとつ踏んでは空也の忌」↑

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