2021年5月4日火曜日

渡邊白泉「白日に挙げし戦死の掌(て)を見たり」(『渡邊白泉の句と真実』より)・・・

 



             渡邊白泉(威徳)の墓(多摩霊園)↑
           墓前に『渡邊白泉の句と真実』を供えた 

 今泉康弘『渡邊白泉の句と真実ー〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉のその後』(大風呂敷出版局・税込1100円)、表紙絵は松本俊介「俳句研究」1938年9月号より。その「あとがき」の冒頭に、

 渡邊白泉(わたなべはくせん)は新興俳句を代表する俳人の一人である。だが、戦後、長い間忘れられた俳人であった。白泉は日中戦争下に〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉などの鋭い批評精神に満ちた句を作る。それゆえ特高警察によって弾圧された。戦後は、そのことによる心の傷を抱えたまま、教員として働きつつ、「俳壇や文壇から絶縁された孤独の窖(あなぐら)で無償の努力」(『白泉句集』)として俳句を作り続けた。本書は白泉の沼津時代に光をあてることを中心として、俳人白泉の「詩と真実」とに迫ろうとする試みである。 
 
 と、述べている。本書で際立っているのは、実際に「エリカはめざむー沼津時代の渡邊白泉」、あるいは「岡山時代の渡邊白泉ー須田義昭(よしあき)さんに聞く」などのように、白泉の遺族や知人、同僚、教え子などにも、白泉の活動や人となりについて取材し、ナマの声を聞いていることであろう。さらに「あとがき」の後半では、

  白泉の研究をする上で非常に役立っているのが、三橋敏雄の編集による資料である。全句集、年譜類、敏雄自身の証言など、敏雄は白泉のために渾身の仕事を成し遂げた。そのおかげで、ぼくは本書を書くことができた。敏雄は書肆林檎屋版『渡邊白泉句集』の解説で、こう記している―「(略)著者白泉が、執筆禁止を強いられた戦中を過ぎてからも長く、ついに死去に至るまで、いわゆる俳壇に深く関わろうとしなかった態度についても、一切の忖度を控えた」。―誤解や偏見に陥ることを避けて、師の思いを尊重しようということであろう。ぼくは本書において、あえて忖度を試みた。それが真実に近いかどうかは、今はわからないが、これからも忖度していきたいと思う。

 と記している。本書の巻末には、「渡邊白泉百句抄」「『渡邊白泉全句集』未収録句紹介」「白泉略年譜」なども付されており、白泉の全体像を結ぶことができる。今年は白泉の108歳にあたる年らしい。多摩霊園にある渡邉家(家紋は三ッ星一つ引きの渡辺星)の墓は、昭和四十四年五月に、妻・千恵子によって建てられ、墓誌によると千江子は、平成15年6月24日、85歳で亡くなられている。ともあれ、ここでは全句集未収録句からいくつかを以下に紹介しておきたい。

  蟻地獄さびしき時は来て見入る     白泉
  象の瞳も夏深ければみどりきぬ
  早春や浮浪の咽のブギウギイ
  マルクスは偶像なりや暖炉冷ゆ
  秋風や痛みて軽きポオ詩集
  雨蛙貧しき家をつゝみ鳴く
  梅咲いて白い馬などやつてくる
  バリカンの音や青田に囲まれて
  垣根して人に見せざる緋桃かな

 渡邊白泉(わたなべ・はくせん) 1913年3月24日~1969年1月30日、東京市生まれ(戸籍謄本では山梨県南都留郡生まれ)。

 今泉康弘(いまいずみ・やすひろ) 1967年、桐生市生まれ。



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