「円錐」第90号(円錐の会)、特集は今泉康弘著『渡邊白泉の句と真実』評、評者はすべて特別寄稿である。延広真治「今泉康弘『渡邊白泉の句と真実ー〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉その後』」、瀬戸正洋「雑感ー雑読シカ出来ヌ雑文シカ書ケヌー」、松下カロ「小さな言葉による大きな批評ー今泉康弘の作品的評論について」、佐藤りえ「二つの孤独ー『渡邊白泉の句と真実を読む」、木村リュウジ「鼠 渡邊白泉の視点」、そして愚生は、原稿依頼の量を間違えて寄稿したらしく、皆さんより一頁少なく、大井恒行「魂は老いず」である。論考中では、「忘年の友を自認している」延広真治の評が感銘深い。そこには、今後、今泉康弘が評論を書き続けるに際しての愛情あふれる指摘のいくつかがあった。例えば、
(前略)著者の思いには心を打たれますが、広告主は誰かなどいろいろ疑問も湧きます。前著『人それを俳句と呼ぶ』の後記に、「調べることの喜びを身近にいて教えてくれた」先輩、夭折した中込重明(なかごめしげあき)への謝辞を綴っているだけに不審です。
(中略)調べるのは「事実」を突きとめるためながら、結果として「正解」に達するとは限らないー一見投げ遣りとも思える口振りは、恐らくコロナ禍での図書館閉鎖と関連すると思われます。著者は右の引用部のように自分を納得させて本書刊行に踏み切ったのでしょうか。それだけに沈潜の度は深まったはずです。(中略)
「渡邊白泉略年譜」。例えば、一九四四年に土浦航海学校などと見えますが、正式名称でしょうか。一九六九年多磨墓地に葬られますが、宗旨もお書き下さい(日蓮宗でしょうか)。なお四三頁「手鎖(てぐさり)」は、テガネまたはテジョウ。一七六頁、「筆箱」は鉛筆消しゴムなどの筆記用具入れ。毛筆は硯箱に入れるのでは。
かくて白泉は見事に甦りました。一重に著者の功で感謝の他はありません。(以下略)
としたためられている。確かに『渡邊白泉全句集』の三橋敏雄編「年譜」のその部分は、
昭和十九年(一九四四年) 三十一歳
一月、次男勝出生。六月、応召。横須賀海兵団に入団。兵科は水兵。のち諸所に配乗転勤。
とあるのみだが、ネットで検索してみると、石井昭著『ふるさと横須賀』の記述によると、海軍航海学校は、「昭和十九年後期入校の十一期生が最後で、二十年一月以降は各海兵団で教育。(中略)七月には、航海学校は校長、海軍大佐大石久保以下全員が、第一特攻隊所属の横須賀突撃隊となり、翌八月の終戦を迎えたのである」との記述がある、など、短期間に相当な機構上の改変が行われているようである。敗戦直前のご都合主義のたまものかも知れない。そして、晴れ間に届いた本著『渡邊白泉の句と真実』を早速、いつもの散歩の足を延ばし、白泉の墓前に、野の花とともに供えたのだった。
また、本誌本号では、今泉康弘「三鬼の弁護士ー藤田一良(ふじたかずよし)と鈴木六林男」が完結している。愚生は、藤田弁護士には面識もないが、鈴木六林男には、いくつかの想い出もあるので、お互いの気質が彷彿とするようなこの連載を面白く読ませてもらっていた。ともあれ、本誌中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。
初蝶の二三度とんで家を出る 荒井みづえ
橋掛りシテの涼しき足さばき 田中位和子
春陰や弁天橋に美美の影 三輪たけし
五輪旗ぞ地に人体と火とを据ゑ 山田耕司
天上(てんじうやう)
天下(てんげ)
附和(ふわ)の細波(さざなみ)
不意(ふい)の虹(にじ) 横山康夫
みずからを紙にくるみて春祭 長岡裕一郎
遠泳のふぐり寂しと思ひけり 糸 大八
来てくれてありがたう蜘蛛そつと運ぶ 原麻理子
戦前や深雪に千の鈴を埋め 摂氏華氏
母の忌や何やらヘソのむずかゆし 江川一枝
国光(こつこう)とふ滅びしものの堅さかな 栗林 浩
蝌蚪の群ななめ泳ぎに流れゆく 小林幹彦
家庭内別居ばたんばつたん冷蔵庫 立木 司
蝋石の線路果てなき遅日かな 和久井幹雄
明日より今日を大事に行々子 味元昭次
蝌蚪二百五百一億日はひとつ 原田もと子
先生の夢より覚めぬ青時雨 澤 好摩
こけかけて倒(こ)けてしまえり老の春 矢上新八
身体を拭く届かぬところもいつか拭く 橋本七尾子
芽夢野うのき「呼ばれてもヘクソかヅラは寡黙」↑
0 件のコメント:
コメントを投稿