大関靖博第7句集『大蔵』(ふらんす堂)、句集とはいえ、このテーマによる先行研究は無いだろうと著者の自負する評論の付録「芭蕉と華厳経」、さらにその論についての東大寺長老・狭川宗玄の書簡と著者のいささか長めの「あとがき」が付されてる。その少し長めの「あとがき」の中に、
(前略)正岡子規は世に〈業俳〉と〈遊俳〉があるが、自分の俳句は〈書生俳句〉であると述べている。今日〈書生〉はなじみがないので私は、〈文学志向の俳句〉と解釈している。そして〈文学志向の俳句〉を私は短くして〈文俳〉と呼びたい。〈文人俳句〉とまぎらわしいが〈文人〉ではなくて〈文学〉の〈文〉と解釈して頂きたい。このように考えると俳人のジャンルが〈業俳〉・〈遊俳〉・〈文俳〉と三種類に分けられて分かりやすくなると思う。勿論私が目指すのは〈文俳〉である。(中略)
私は個人的に俳句は志と思と詩の三位一体のものであると思う。(中略)〈志〉は〈志操〉でひとたび決心したら守って変えない志(こころざし)のことだ。(中略)次に〈思〉は〈思想〉である。〈思想〉は自分の頭で考えたこと、また古今東西のかんがえを自分で取捨選択してわがものとした考え方である。(中略)第三のものは〈詩〉である。つなり〈詩想〉は俳句の中での詩的な考え、及び俳句という詩を作ることに駆りたてる着想である。(中略)というわけで換言すると俳句は志操・思想・詩想の三位一体の有機物といえよう。このあたりを体にたとえるならば〈志操〉は体を支える〈骨〉であり、〈思想〉は体を動かす筋肉であり、〈詩想〉は体の命を保持する血管を流れる〈血液〉ということになろう。
と述べられている。また、付録の「芭蕉と華厳経」では、
(前略)本稿の骨子は華厳経と芭蕉の間に謡曲の『江口』をかけ橋として双方の関連を認めるというスキームである。そしてその三者のキーワードを〈遊女〉に置くというものである。華厳経と『江口』との関係は大和猿楽が大寺院の神事の時に演じられた源流を思えば、仏教を題材にした能の作品が残っていても不自然ではなかろう。芭蕉と『江口』との関連は『江口』が西行と深い関連があり、既に多くの芭蕉学者が二者の深い連関を指摘するところである。
東大寺は華厳宗大本山であるから日本の華厳経の中心であり今日華厳学研究所が東大寺に設けられていて、現在でもその地位を保持しているのである。(中略)
私の仮説が正しければ『善財童子 求道の旅』の引用から考えて芭蕉の『幻住庵記』における〈幻住〉というキーワードは華厳経に依拠したものと考えるのである。(中略)
又、『奥の細道』は世界文学に貢献できた日本の唯一の文学作品であると思う。このグローバルな作品は東北という当時の文学的フロンティアにおいて西行の点を芭蕉が線でつないだという意味でローカルである。しかしその内容の中で三国(愚生注:日本・唐土・天竺)の宗教や文化をなるべく不自然にならないように融合させたという意味でグローバルである。(中略)つまり日本のグローバリゼーションは第一期を大仏開眼とすれば、その後のグローバリゼーションは芭蕉の文学的世界において実現されたことになるのだ。鎖国の中でのグローバリゼーションであったということになる。
と結んでいる。ともあれ、本句集からいくつかの句を挙げておこう。
揚雲雀空に酸素のある限り 靖博
草の絮生に息あり死に影あり
白鳥の眠りて月に漂へり
秋遍路白衣に生身詰め込みて
戦より七十四年目の残暑
白牡丹誕生も死も白衣にて
噴水や我は輪廻のどのあたり
蠛蠓や戦死者凌駕コロナ死者
酒井良治氏御葬儀
濱町は秋笑みの遺影は法被着て
太陽に誉められてゐる菊日和
余りたる生もありけり紅葉山
帰り花命は二つなかりけり
大関靖博(おおぜき・やすひろ) 1948年、千葉県幕張町実籾(現習志野市)生まれ。
芽夢野うのき「夕芙蓉そのいろ愛でる日がへりぬ」↑
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