黒田杏子編『増補新装版 証言・昭和の俳句』(コールサック社)、その黒田杏子「増補新装版あとがき」に、
およそ20年前に出ました角川選書『証言・昭和の俳句』(上・下巻)は好評を博しました。「俳句」に連載された13名のロングインタビューをまとめたもの。(中略)
このたびの増補新装版にはあらたに現在この国の第一線でご活躍中の皆様から書き下ろし四千字の玉稿を頂いております。
とある。その活躍中の人とは、五十嵐秀彦・井口時男・宇多喜代子・恩田侑布子・神野紗希・齋藤愼爾・坂本宮尾・下重曉子・関悦史・高野ムツオ・筑紫磐井・対馬康子・寺井谷子・中野利子・夏井いつき・仁平勝・星野高士・山下知津子・横澤放川の20名である。当時の「俳句」編集長は海野謙四郎。この新たに書き下ろされた論考には、時代のながれた分だけ、見通しの良くなった部分もある。さしずめ、ほぼ20歳下の関悦史「グランドホテルのまぼろし」では、「グランドホテルは消えた。/その間際の光芒として本書は残されたのである」と結んでいる。ここでは、仁平勝「少年と老人の文学ー三橋敏雄について」で、愚生を登場させていただいているので、引用するが、あらためて、仁平勝の記憶力に脱帽している。
あるとき私と大井恒行が国立の「ロージナ」という喫茶店にいたら、そこに三橋さんが高屋窓秋さんと一緒に入ってきた(三橋さんがまだ八王子に住んでいるころで、高屋さんは国立に住んでいた)。私たちは立ち上がって挨拶し、三橋さんも軽く会釈されて奥のほうの席に着いたが、やがて三橋さんたちが先に店を出て行った。するとしばらして三橋さんから「ロージナ」に電話があり、私たちは近くの居酒屋に呼ばれたのである。
愚生が覚えているのはここまでで、以下は、仁平勝の言である。
(中略)そこで話した内容を二つほど覚えている。一つは自慢話になるが、私はすこし前に「俳句研究」で、そのころ発表された〈戦争と畳の上の団扇かな〉の句を採り上げ、「畳の上の団扇」という日常の風景にリアルな「戦争」の像がある。といった評を書いていた(初めて総合誌に書いた文章である)。それを三橋さんが「あの句を正しく読んでもらえた」と褒めてくれたのである。
もう一つは、三橋さんが私たちにいろいろ俳句の話をしながら、「俳句は少年と老人の文学だよ」と言ったことだ。私も大井恒行も三十代半ばだったから、「じゃあ、我々はどうしたらいいんですか?」とツッコミを入れたように記憶しているが、この言葉は印象に残った。
とある。もう一か所、「俳句空間」(1992年2月号、特集・西東三鬼のいる風景)で三橋敏雄インタビューを仁平勝にお願いしている部分がある。じつは、「俳句空間」(弘栄堂書店版)では「さらば、昭和俳句」(1989年、平成元年・第8号)で三橋敏雄インタビュー(阿部鬼九男)では「戦中俳句」について聞いている。この「「さらば昭和俳句」のインタビューは、他に、阿波野青畝「昭和初期のホトトギス」(聞き手・宇多喜代子)・古沢太穂「プロレタリア俳句」(聞き手・谷山花猿)・金子兜太「社会性俳句~前衛俳句」・(聞き手・夏石番矢)を行っている。つまり、そののち、ほぼ14年を経て、証言・昭和俳句のインタビューは実現している。その内容の重厚さでは、質量とも角川「俳句」のものであることは止むを得ない。
ともあれ、以下に、本書収載の一人一句を挙げておこう。
ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ 桂 信子
暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男
甚平や一誌持たねば仰がれず 草間時彦
湾曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
成人の日をくろがねのラッセル車 成田千空
心太みじかき箸を使ひけり 古舘曹人
虹二重神も恋愛したまへり 津田清子
白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ 古沢太穂
塩田に百日筋目つけ通し 沢木欣一
ひばり野に父なる額うちわられ 佐藤鬼房
凧なにもて死なむあがるべし 中村苑子
母の忌の花火いくつも上がりけり 深見けん二
あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄
撮影・鈴木純一「金は噛む銀ブラ二人静な銅」↑
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